2011-03-25(Fri)
小説・さやか見参!2(84)
高陵山での戦いから数日が過ぎていた。
里に戻った山吹さやかは荒れた山中に立っている。
山吹の土地ではない。
かつて蛇組…荊木流の砦があった山の中だ。
荊木砦は十年前に山吹たけるの奇襲で焼け落ちた。
現在でも、そのまま打ち捨てられた哀れな姿を晒している。
さやかは側を通る際もそれを見ないようにしていた。
過ぎた時間は取り戻せない。
どうする事も出来ない。
だから過去を見るのはつらいのだ。
『過去を乗り越えてこそ今がある』
というのも正論かもしれぬ。
だが正論とは真理ではない。
『過去を乗り越えてきた者』は、『乗り越えられぬ過去に出会わなかった者』かもしれないのだ。
小さな過去を乗り越えただけの者が、巨大な過去を引きずる者を簡単に批判するべきではない。
まだ十五年ほどしか生きぬこの少女が過去に負った傷の深さを誰が知る事が出来よう。
出来るだけ過去の残骸を見ないように顔を背けて駆け抜けたさやかが辿り着いたのが、今立っている、この荒れた山中なのである。
さやかの前には粗末な祠らしきものがあり、その中に小さな白い石が立っている。
さやかはそれを黙って見ていた。
『それは何っシュ?』
いつの間にか背後に来ていた心太郎が問う。
さやかは驚く事も振り返る事もなく、
『女神様よ』
と答えた。
『女神様?おいらにはただの石にしか見えないっシュけど…』
近付いてまじまじと見る。
『いま残ってるのは足だけだもの。上半分は斬られて残ってないのよ』
『斬られた、って…誰にっシュ?』
『幻龍イバラキ』
その名前に心太郎がびくっと反応した。
さやかが何故ここに来たのか。
それは少し前に遡る。
さやかは高陵山での一件を父であり頭領である山吹武双に報告した。
驚いた事に、武双は鬼の正体に薄々気付いていたようだ。
『だからおまえを行かせたのだ』
と、頭領はそう言った。
『奴と決着をつけるのはおまえでなければならん』
さやかがイバラキに対して並々ならぬ憎しみを抱いている事を武双は知っている。
さやかに『たけるの敵討ちをしろ』と言っているのだろうか。
しかしそのような口振りとも思えなかった。
父の真意は分からないが、再びイバラキと出会った以上は決着をつける覚悟のさやかである。
話が続く様子もないので、さやかは正座のまま頭を下げて、それから立ち上がった。
部屋を出ようとする娘を父が呼び止める。
『なんでしょう?』
さやかが振り返った。
『どうだった。愛弟子との旅は』
そうだった。
当初の疑問を忘れていた。
さやかは急に父娘の口調になって訊いた。
『父上!どうして心太郎をお供につけたの!?』
『不服か』
『大いに不服よ!お供どころか足を引っ張るばかりで迷惑したわ』
『そうか』
短くそう言った武双は若干笑っているように見えた。
そして上目づかいにさやかを見て
『まだまだたけるには遠く及ばぬな』
と言ったのだった。
さやかは頭に血がのぼるのを感じた。
自分が兄に及ばない事は重々承知している。
しかし面と向かって言われるとやはりかっとなる。
負けず嫌いなのだ。
娘の性分など知っているだろうに、父は何故こんな事を言うのか。
さやかは努めて冷静なふりをして一礼し、屋敷を出た。
それからしばらくは池のほとりに座って、何を見るでもなく虚空を見つめていた。
ここはたけるが調息の修行をしていた池だ。
兄との想い出に浸りたくなると時折訪れるのだが、まだ風景を見つめる事が出来ない。
ここには過去の亡霊が、
いや、
幸せという名の亡霊が地縛 している。
その亡霊を見てしまえば冥土に引きずり込まれる。
だからさやかは虚空を見つめていたのだ。
しかし頭の中を虚空にする事は出来なかった。
兄の事が浮かんだ。
イバラキの事が浮かんだ。
心太郎の事が浮かんだ。
過去が入り込まぬように感情が溢れているのか、
それともすでに亡霊に憑かれているのか―
そしてさやかは急に、山中の女神像が見たくなったのである。
里に戻った山吹さやかは荒れた山中に立っている。
山吹の土地ではない。
かつて蛇組…荊木流の砦があった山の中だ。
荊木砦は十年前に山吹たけるの奇襲で焼け落ちた。
現在でも、そのまま打ち捨てられた哀れな姿を晒している。
さやかは側を通る際もそれを見ないようにしていた。
過ぎた時間は取り戻せない。
どうする事も出来ない。
だから過去を見るのはつらいのだ。
『過去を乗り越えてこそ今がある』
というのも正論かもしれぬ。
だが正論とは真理ではない。
『過去を乗り越えてきた者』は、『乗り越えられぬ過去に出会わなかった者』かもしれないのだ。
小さな過去を乗り越えただけの者が、巨大な過去を引きずる者を簡単に批判するべきではない。
まだ十五年ほどしか生きぬこの少女が過去に負った傷の深さを誰が知る事が出来よう。
出来るだけ過去の残骸を見ないように顔を背けて駆け抜けたさやかが辿り着いたのが、今立っている、この荒れた山中なのである。
さやかの前には粗末な祠らしきものがあり、その中に小さな白い石が立っている。
さやかはそれを黙って見ていた。
『それは何っシュ?』
いつの間にか背後に来ていた心太郎が問う。
さやかは驚く事も振り返る事もなく、
『女神様よ』
と答えた。
『女神様?おいらにはただの石にしか見えないっシュけど…』
近付いてまじまじと見る。
『いま残ってるのは足だけだもの。上半分は斬られて残ってないのよ』
『斬られた、って…誰にっシュ?』
『幻龍イバラキ』
その名前に心太郎がびくっと反応した。
さやかが何故ここに来たのか。
それは少し前に遡る。
さやかは高陵山での一件を父であり頭領である山吹武双に報告した。
驚いた事に、武双は鬼の正体に薄々気付いていたようだ。
『だからおまえを行かせたのだ』
と、頭領はそう言った。
『奴と決着をつけるのはおまえでなければならん』
さやかがイバラキに対して並々ならぬ憎しみを抱いている事を武双は知っている。
さやかに『たけるの敵討ちをしろ』と言っているのだろうか。
しかしそのような口振りとも思えなかった。
父の真意は分からないが、再びイバラキと出会った以上は決着をつける覚悟のさやかである。
話が続く様子もないので、さやかは正座のまま頭を下げて、それから立ち上がった。
部屋を出ようとする娘を父が呼び止める。
『なんでしょう?』
さやかが振り返った。
『どうだった。愛弟子との旅は』
そうだった。
当初の疑問を忘れていた。
さやかは急に父娘の口調になって訊いた。
『父上!どうして心太郎をお供につけたの!?』
『不服か』
『大いに不服よ!お供どころか足を引っ張るばかりで迷惑したわ』
『そうか』
短くそう言った武双は若干笑っているように見えた。
そして上目づかいにさやかを見て
『まだまだたけるには遠く及ばぬな』
と言ったのだった。
さやかは頭に血がのぼるのを感じた。
自分が兄に及ばない事は重々承知している。
しかし面と向かって言われるとやはりかっとなる。
負けず嫌いなのだ。
娘の性分など知っているだろうに、父は何故こんな事を言うのか。
さやかは努めて冷静なふりをして一礼し、屋敷を出た。
それからしばらくは池のほとりに座って、何を見るでもなく虚空を見つめていた。
ここはたけるが調息の修行をしていた池だ。
兄との想い出に浸りたくなると時折訪れるのだが、まだ風景を見つめる事が出来ない。
ここには過去の亡霊が、
いや、
幸せという名の亡霊が地縛 している。
その亡霊を見てしまえば冥土に引きずり込まれる。
だからさやかは虚空を見つめていたのだ。
しかし頭の中を虚空にする事は出来なかった。
兄の事が浮かんだ。
イバラキの事が浮かんだ。
心太郎の事が浮かんだ。
過去が入り込まぬように感情が溢れているのか、
それともすでに亡霊に憑かれているのか―
そしてさやかは急に、山中の女神像が見たくなったのである。
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