2011-01-16(Sun)
小説・さやか見参!2(61)
山吹流頭領、武双の命により西国の高陵山へ『鬼退治』に向かった山吹さやかであったが、
※さやかは『鬼』の存在を信じてはいないが、『鬼退治』という言葉の響きは気に入ったようである。
1つ納得のいかない事があった。
心太郎の存在である。
なぜ武双がこの三流忍者をお供に選んだのか、さやかには理由が分からない。
助けにならないどころか足手まといである。
山吹砦を出て高陵山に辿り着くまで一週間を要したのも心太郎の足が遅いからだ。
おまけにすぐ
『お腹すいたっシュ』
だの
『眠くなってきたっシュ』
だの言い出す始末で、事あるごとにさやかは苛々していた。
自分が10歳の頃とは…
いや、
5歳6歳の頃とも比べ物にならない。
『あんたには忍びの才能ないんじゃないの~』
さやかは心太郎によくこんな事を言った。
しかし、実は心太郎を忍者として育てたのは他ならぬさやか本人なのである。
心太郎は、山吹流頭領・武双の弟である山吹錬武の血を引いているそうだ(どのような関係かは分からぬ)。
かつて武双が錬武を訪ねて砦を留守にしていた際に山吹の配下を一角衆に操られた事があったが、どうやらその時に武双は心太郎の誕生に立ち会ったらしい。
そして心太郎は3歳の時、武双の元に預けられたのだ。
錬武の血縁はたくさんいたが、これまでそのような事はなかった。
さやかは当初
『わざわざ父上に預けられるぐらいだから、よほどの潜在能力を持った子供なんだわ!』
と思っていた。
なので心太郎の教育係を任された時はわくわくしていたのだ。
一見どんくさい普通の子供だけど、何かのはずみに潜在能力を開花させるのよ!
そんな妄想にも囚われていた。
やはり潜在能力が目覚めるのは危機に陥った時だろうという事で、橋から川に突き落としてみたり、野生の猪をけしかけたりしてみた。
しかし心太郎は溺れて死にかけたり、吹っ飛ばされて死にかけたり、いつまでも覚醒する様子はない。
しばらく試してみてようやく、
『あぁ、この子は才能ないんだ』
と落胆したのだ。
さやかはくのいちとしては天才である。
兄・たけるの技を見よう見まねで学び、それを会得した才能はまさに非凡と言わざるを得ない。
そこにさやかの『指導者』としての欠点がある。
天才的な感覚で身に付けた技術ゆえ、言語化・体系化して他人に伝える事が出来ないのだ。
と言うよりも、技術を伝える為に『言語化』や『体系化』が必要という認識すらない。
つまりは『人を育てる能力』が欠けているのだ。
これは父・武双にとっても悩みの種であった。
さやかがいずれ山吹の頭領になるのならば育成能力は欠かせない。
そしてそれはさやか自身の心の鍛練にも繋がる問題である。
他人に何かを伝える為に必要な事はたった1つしかない。
それは、
『相手を自分に置き換える』
という事。
簡単に言えば
『相手の気持ちになって指導する』
という事になる。
言葉にすれば容易いが、実践はなかなか難しい。
人には自我がある。
自我が強ければ強いほど、自分を相手に投影してしまうのだ。
結果、自分の思想、思考を相手に押し付けてしまう。
『自分が伝える努力』を破棄して、相手に『理解する努力』を求めてしまうのだ。
今のさやかはまさにこの状態であった。
『相手の気持ちになる』というのは『敵の心を読む』為の第一歩である。
己に教えを請う弟子の心も読めぬ者に、敵対する相手の心理など読めようはずもない。
これが分からぬ内はさやかも、心太郎と同じ『三流』なのだ。
内面においていまだ未熟なさやかは、兄・たけるが自分を上手く導いてくれていた事に気付いていない。
たけるは、さやかが自主的に学び、自主的に成長出来るように『指導して』いた。
修行の際、さやかが興味を持ちそうな技を『さりげなく』見せる。
最初は真似しやすいように、分かり易く大きく動いて見せ、さやかが慣れるにつれて動きを小さくしていく。
さやかが戸惑っている時には『さりげなく』助け船をだす。
たけるは常に、『さやかに伝える事』を前提に修行していたのである。
そのやり方がうま過ぎたのかもしれぬ。
『伝える技術』を伝えぬままこの世を去った事はたけるの無念であったかもしれない。
とにかくさやかにとって心太郎は、出来の悪い弟子でしかなかったのだ。
※さやかは『鬼』の存在を信じてはいないが、『鬼退治』という言葉の響きは気に入ったようである。
1つ納得のいかない事があった。
心太郎の存在である。
なぜ武双がこの三流忍者をお供に選んだのか、さやかには理由が分からない。
助けにならないどころか足手まといである。
山吹砦を出て高陵山に辿り着くまで一週間を要したのも心太郎の足が遅いからだ。
おまけにすぐ
『お腹すいたっシュ』
だの
『眠くなってきたっシュ』
だの言い出す始末で、事あるごとにさやかは苛々していた。
自分が10歳の頃とは…
いや、
5歳6歳の頃とも比べ物にならない。
『あんたには忍びの才能ないんじゃないの~』
さやかは心太郎によくこんな事を言った。
しかし、実は心太郎を忍者として育てたのは他ならぬさやか本人なのである。
心太郎は、山吹流頭領・武双の弟である山吹錬武の血を引いているそうだ(どのような関係かは分からぬ)。
かつて武双が錬武を訪ねて砦を留守にしていた際に山吹の配下を一角衆に操られた事があったが、どうやらその時に武双は心太郎の誕生に立ち会ったらしい。
そして心太郎は3歳の時、武双の元に預けられたのだ。
錬武の血縁はたくさんいたが、これまでそのような事はなかった。
さやかは当初
『わざわざ父上に預けられるぐらいだから、よほどの潜在能力を持った子供なんだわ!』
と思っていた。
なので心太郎の教育係を任された時はわくわくしていたのだ。
一見どんくさい普通の子供だけど、何かのはずみに潜在能力を開花させるのよ!
そんな妄想にも囚われていた。
やはり潜在能力が目覚めるのは危機に陥った時だろうという事で、橋から川に突き落としてみたり、野生の猪をけしかけたりしてみた。
しかし心太郎は溺れて死にかけたり、吹っ飛ばされて死にかけたり、いつまでも覚醒する様子はない。
しばらく試してみてようやく、
『あぁ、この子は才能ないんだ』
と落胆したのだ。
さやかはくのいちとしては天才である。
兄・たけるの技を見よう見まねで学び、それを会得した才能はまさに非凡と言わざるを得ない。
そこにさやかの『指導者』としての欠点がある。
天才的な感覚で身に付けた技術ゆえ、言語化・体系化して他人に伝える事が出来ないのだ。
と言うよりも、技術を伝える為に『言語化』や『体系化』が必要という認識すらない。
つまりは『人を育てる能力』が欠けているのだ。
これは父・武双にとっても悩みの種であった。
さやかがいずれ山吹の頭領になるのならば育成能力は欠かせない。
そしてそれはさやか自身の心の鍛練にも繋がる問題である。
他人に何かを伝える為に必要な事はたった1つしかない。
それは、
『相手を自分に置き換える』
という事。
簡単に言えば
『相手の気持ちになって指導する』
という事になる。
言葉にすれば容易いが、実践はなかなか難しい。
人には自我がある。
自我が強ければ強いほど、自分を相手に投影してしまうのだ。
結果、自分の思想、思考を相手に押し付けてしまう。
『自分が伝える努力』を破棄して、相手に『理解する努力』を求めてしまうのだ。
今のさやかはまさにこの状態であった。
『相手の気持ちになる』というのは『敵の心を読む』為の第一歩である。
己に教えを請う弟子の心も読めぬ者に、敵対する相手の心理など読めようはずもない。
これが分からぬ内はさやかも、心太郎と同じ『三流』なのだ。
内面においていまだ未熟なさやかは、兄・たけるが自分を上手く導いてくれていた事に気付いていない。
たけるは、さやかが自主的に学び、自主的に成長出来るように『指導して』いた。
修行の際、さやかが興味を持ちそうな技を『さりげなく』見せる。
最初は真似しやすいように、分かり易く大きく動いて見せ、さやかが慣れるにつれて動きを小さくしていく。
さやかが戸惑っている時には『さりげなく』助け船をだす。
たけるは常に、『さやかに伝える事』を前提に修行していたのである。
そのやり方がうま過ぎたのかもしれぬ。
『伝える技術』を伝えぬままこの世を去った事はたけるの無念であったかもしれない。
とにかくさやかにとって心太郎は、出来の悪い弟子でしかなかったのだ。
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