2013-04-10(Wed)
小説・さやか見参!(186)
さやかとイバラキはただ向かい合って立っていた。
邪衆院はすっと下がった。
この二人の間には何人たりとも入る事は許されない、
そんな気がしたからだ。
さやかの小さな身体からは、大気を濁らせんばかりの怒りが溢れている。
さやかは兄の仇、イバラキを憎んでいる。
だが、今の怒りは、これまでイバラキに対して発していたものとは少し違うように邪衆院は感じた。
なんというか、
悲しい怒りだった。
二人の対峙がどれくらいの時間だったのかは分からぬ。
長くも思えたし短くも感じた。
いずれにせよ先に動き出したのはさやかだった。
さやかは身構えるでもなく刀を抜くでもなく、つかつかとイバラキの前に進むと、全力でその頬を張った。
イバラキは動かない。
反撃する様子もない。
ただ一言、
『なんの真似だ?』
と訊いた。
さやかは、鉄仮面を打ちじんじん痺れている掌にも構わずイバラキを睨み、
『ゆりさんが死んだ』
と絞り出すように言った。
『ゆり?知らぬな』
ゆりは鳥飼でさやかが出会った美しい少女だった。
イバラキが藩主を操って出させた『他人を欺くを禁ず』という触れのせいで鳥飼の人心は乱れ、ゆりは夫婦となるはずだった富男に捨てられたのだ。
さやかはこの件を解決して、ゆりに幸せになってほしかった。
優しく、心を痛めながらも気丈に生きる少女を助けたかった。
だが、
心太郎から悲しい知らせを受けたのは今朝早くの事だった。
鳥飼の様子を見に行った心太郎が出会ったのは、ゆりの葬儀の列だった。
人知れず自害したのだと号泣しながら父親が教えてくれた。
ぎりぎりで持ちこたえていた糸がぷつんと切れてしまったのだろう。
間に合わなかった。
さやかはゆりを助ける事が出来なかった。
『そりゃあんたは知らないでしょうね』
さやかはイバラキを上目使いに睨んでいる。
『あんたが藩主を操って出した御触れのせいで人生を狂わされた人よ!何も悪くないのに!幸せになれるはずだったのに!!』
『あの触れの何が悪い?嘘をつくべからず、人を騙すべからず、これのどこに問題がある?人として当然の事ではないか。それで人生を狂わされたと言われては合点がいかぬな』
『確かに言ってる事は間違いじゃないわよ。でも、それはあんたが命令する事じゃない!』
『では拙者があの触れを出さなければこの世から嘘はなくなるのか?人が人を騙す事はなくなるのか?』
『なくなりはしないわ。だけど、少なくともゆりさんは』
『なるほど。おぬしはその、ゆりという者が死んだ事で怒っておるのか。拙者が藩主を操った事ではなく。ならばその者に詫びようではないか。だが、という事は、ゆりさえ死なねばおぬしは平気だったわけだな』
『それは違う!』
『どう違う?拙者が関わろうが関わるまいが、いずれにしてもこの世から嘘はなくならないのであろう?だとしたら、拙者が関わらずともいずれ、そのゆりとやらは誰かに騙されて命を落としていたかもしれぬぞ』
『そんな仮定に意味はないわ』
『意味はある。もし、拙者と関わりない嘘や裏切りのせいでゆりが死んでいたならば、おぬしはどうしていた?』
『どうって』
『ゆりを騙した相手を殴るのか?ゆりを裏切った相手を責めるのか?そうではあるまい』
『…』
『拙者が出させた触れの犠牲になったのはゆり一人か?他に悲しい思いをした者はおらぬのか?』
『…』
『全てを把握しておるわけでもないのであろう。全体像も見えておらぬくせに、たまたま知り合った者が死んだというだけでおぬしは拙者を責めておるのだ。それは正義ではない。私怨だ』
『…』
『身近な者の理不尽な死、その原因となる者がたまたま手が届く所にいた。だから怒りや悲しみをぶつけに来た。それだけではないか』
『…違う!』
さやかが声を荒げた。
だがそれに答えたイバラキはさらに感情的な声を上げた。
『何が違う!!』
さやかの肩が小さくびくっと動いた。
『山吹さやか、ならば聞かせてもらおう。ゆりの死が悲しいか?それは拙者が関わっているから悲しいのか!?もし拙者が関わっていなかったら、それで誰かに裏切られて死んでいたら悲しくなかったのか!?』
『悲しいわよ!悲しいに決まってるじゃないの!』
『ならば正すべきはこの世ではないのか!?禁じられて尚、人を欺き裏切ろうとする人心こそを改むるべきではないのか!?人と人が、少なくとも家族や仲間だけは信じ合う事が出来る世界を作るべきではないのか!?それこそが』
イバラキは一瞬言葉を飲み込んで、そして、
『それこそが、山吹たけるが求めていた綺麗事ではないのか?』
と、聞こえるか聞こえないかぐらいの声を吐き出した。
邪衆院はすっと下がった。
この二人の間には何人たりとも入る事は許されない、
そんな気がしたからだ。
さやかの小さな身体からは、大気を濁らせんばかりの怒りが溢れている。
さやかは兄の仇、イバラキを憎んでいる。
だが、今の怒りは、これまでイバラキに対して発していたものとは少し違うように邪衆院は感じた。
なんというか、
悲しい怒りだった。
二人の対峙がどれくらいの時間だったのかは分からぬ。
長くも思えたし短くも感じた。
いずれにせよ先に動き出したのはさやかだった。
さやかは身構えるでもなく刀を抜くでもなく、つかつかとイバラキの前に進むと、全力でその頬を張った。
イバラキは動かない。
反撃する様子もない。
ただ一言、
『なんの真似だ?』
と訊いた。
さやかは、鉄仮面を打ちじんじん痺れている掌にも構わずイバラキを睨み、
『ゆりさんが死んだ』
と絞り出すように言った。
『ゆり?知らぬな』
ゆりは鳥飼でさやかが出会った美しい少女だった。
イバラキが藩主を操って出させた『他人を欺くを禁ず』という触れのせいで鳥飼の人心は乱れ、ゆりは夫婦となるはずだった富男に捨てられたのだ。
さやかはこの件を解決して、ゆりに幸せになってほしかった。
優しく、心を痛めながらも気丈に生きる少女を助けたかった。
だが、
心太郎から悲しい知らせを受けたのは今朝早くの事だった。
鳥飼の様子を見に行った心太郎が出会ったのは、ゆりの葬儀の列だった。
人知れず自害したのだと号泣しながら父親が教えてくれた。
ぎりぎりで持ちこたえていた糸がぷつんと切れてしまったのだろう。
間に合わなかった。
さやかはゆりを助ける事が出来なかった。
『そりゃあんたは知らないでしょうね』
さやかはイバラキを上目使いに睨んでいる。
『あんたが藩主を操って出した御触れのせいで人生を狂わされた人よ!何も悪くないのに!幸せになれるはずだったのに!!』
『あの触れの何が悪い?嘘をつくべからず、人を騙すべからず、これのどこに問題がある?人として当然の事ではないか。それで人生を狂わされたと言われては合点がいかぬな』
『確かに言ってる事は間違いじゃないわよ。でも、それはあんたが命令する事じゃない!』
『では拙者があの触れを出さなければこの世から嘘はなくなるのか?人が人を騙す事はなくなるのか?』
『なくなりはしないわ。だけど、少なくともゆりさんは』
『なるほど。おぬしはその、ゆりという者が死んだ事で怒っておるのか。拙者が藩主を操った事ではなく。ならばその者に詫びようではないか。だが、という事は、ゆりさえ死なねばおぬしは平気だったわけだな』
『それは違う!』
『どう違う?拙者が関わろうが関わるまいが、いずれにしてもこの世から嘘はなくならないのであろう?だとしたら、拙者が関わらずともいずれ、そのゆりとやらは誰かに騙されて命を落としていたかもしれぬぞ』
『そんな仮定に意味はないわ』
『意味はある。もし、拙者と関わりない嘘や裏切りのせいでゆりが死んでいたならば、おぬしはどうしていた?』
『どうって』
『ゆりを騙した相手を殴るのか?ゆりを裏切った相手を責めるのか?そうではあるまい』
『…』
『拙者が出させた触れの犠牲になったのはゆり一人か?他に悲しい思いをした者はおらぬのか?』
『…』
『全てを把握しておるわけでもないのであろう。全体像も見えておらぬくせに、たまたま知り合った者が死んだというだけでおぬしは拙者を責めておるのだ。それは正義ではない。私怨だ』
『…』
『身近な者の理不尽な死、その原因となる者がたまたま手が届く所にいた。だから怒りや悲しみをぶつけに来た。それだけではないか』
『…違う!』
さやかが声を荒げた。
だがそれに答えたイバラキはさらに感情的な声を上げた。
『何が違う!!』
さやかの肩が小さくびくっと動いた。
『山吹さやか、ならば聞かせてもらおう。ゆりの死が悲しいか?それは拙者が関わっているから悲しいのか!?もし拙者が関わっていなかったら、それで誰かに裏切られて死んでいたら悲しくなかったのか!?』
『悲しいわよ!悲しいに決まってるじゃないの!』
『ならば正すべきはこの世ではないのか!?禁じられて尚、人を欺き裏切ろうとする人心こそを改むるべきではないのか!?人と人が、少なくとも家族や仲間だけは信じ合う事が出来る世界を作るべきではないのか!?それこそが』
イバラキは一瞬言葉を飲み込んで、そして、
『それこそが、山吹たけるが求めていた綺麗事ではないのか?』
と、聞こえるか聞こえないかぐらいの声を吐き出した。
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