2012-07-25(Wed)
小説・さやか見参!(166)
『上様』
戸の向こうから声がすると、藩主は身体を起こした。
返事を待たずに家臣達はすっと襖を開ける。
『失礼つかまつりまする』
二人の若侍、そして頭を丸めた十徳姿の中年の男が寝所へ入った。
さやかは屋根裏で、心太郎は床下で気配を完全に消し去っている。
『上様、御加減はいかがにござりまするか』
十徳の男が湯飲みを乗せた盆を手に藩主の傍らに座した。
おそらくは典医なのであろう。
『さ、薬湯を』
典医が藩主の手に湯飲みを握らせる。
すると鳥飼侯は、まるでからくりのような動きで薬湯を飲み干した。
その目は焦点が合っていない。
やはり藩主は病に侵されているのだと心太郎は思った。
空の湯飲みを受け取った典医はそれを逆さにして盆に乗せ、若侍達の後ろに座した。
それから、
しばらくの間、沈黙が続いた。
誰も喋らず、誰も動かず、ただ時間だけが流れる。
しかし天井裏のさやかは僅な変化に気付いていた。
虚ろだった藩主の目に、次第に光が戻り始めていたのである。
それはどんよりとした鈍色の光ではあったのだが。
やがて、藩主は口を開いた。
先程までの様子からは信じられぬ、しっかりした低い声で。
『どうじゃ』
いきなりの問いである。
心太郎は一瞬呆気に取られた。
だが若侍達には主君の真意が伝わっているらしく、
『本日は二名にございます』
と答えた。
『けしからん』
藩主は吐き捨てた。
若侍と典医は頭を下げる。
『人を欺かぬ、人を裏切らぬ、そんな当たり前の事が何故下々の者達には出来ぬのだ。裏切りは万死に値する行為。命をもって償わせるが良い』
『はっ』
更に若侍が頭を下げる。
そうか。
『本日は二名』
とは、人を欺いた罪で裁かれる者の数なのだ。
これよりその者達が刑を処されるのだろう。
さやかと心太郎が聞いた話では、今やこの鳥飼は疑心と謀略の国に成り下がっている。
『他人を欺くべからず』という律は、憎き者を排除する為に利用されている。
何処の某に騙されたと虚偽の密告をするだけで、その某は確かな詮議もないまま処罰されてしまうのだ。
つまりはこれから処刑される者達も、他人を欺いた者なのか他人に陥れられた者かははっきりせぬという事である。
これでは逆に、嘘をつく者が得をする、正直者が損をする社会が出来上がるだけではないか。
心太郎は処刑される二人を助けなければ、と思い、さやかの気配を探った。
もしかしたらさやかが助けに動くかもと思ったからだ。
だが、さやかが動く気配はなかった。
今は藩主から目を離すわけにはいかないのだ。
心太郎が奥歯を噛み締める。
さやかは心太郎の気持ちを察しながらも室内の様子を窺い続けていた。
先程、一瞬だけ鈍い光が灯った鳥飼侯の目が、再びどろりと濁ったからだ。
光を失うと、そのまま藩主は口を開かなくなった。
典医が寄り添う。
『上様はお疲れになったようじゃ』
そう言って目配せすると若侍達が頭を下げて襖を開けた。
湯飲みの乗った盆を手にした典医が退出し、若侍がそれに続く。
一人になった藩主は、またごろりと横になった。
(なによ、あれ)
さやかが内心毒づく。
さやかからははっきりと見えたのだ。
典医が寄り添うようにして、鳥飼侯の首筋にこっそり針を刺した所が。
そういえば、あの男が渡した薬湯を飲んでから鳥飼侯は人が変わったように喋り始めたのである。
薬と針で操られているのか。
ならばあの十徳の男は、ただの典医などではあるまい。
戸の向こうから声がすると、藩主は身体を起こした。
返事を待たずに家臣達はすっと襖を開ける。
『失礼つかまつりまする』
二人の若侍、そして頭を丸めた十徳姿の中年の男が寝所へ入った。
さやかは屋根裏で、心太郎は床下で気配を完全に消し去っている。
『上様、御加減はいかがにござりまするか』
十徳の男が湯飲みを乗せた盆を手に藩主の傍らに座した。
おそらくは典医なのであろう。
『さ、薬湯を』
典医が藩主の手に湯飲みを握らせる。
すると鳥飼侯は、まるでからくりのような動きで薬湯を飲み干した。
その目は焦点が合っていない。
やはり藩主は病に侵されているのだと心太郎は思った。
空の湯飲みを受け取った典医はそれを逆さにして盆に乗せ、若侍達の後ろに座した。
それから、
しばらくの間、沈黙が続いた。
誰も喋らず、誰も動かず、ただ時間だけが流れる。
しかし天井裏のさやかは僅な変化に気付いていた。
虚ろだった藩主の目に、次第に光が戻り始めていたのである。
それはどんよりとした鈍色の光ではあったのだが。
やがて、藩主は口を開いた。
先程までの様子からは信じられぬ、しっかりした低い声で。
『どうじゃ』
いきなりの問いである。
心太郎は一瞬呆気に取られた。
だが若侍達には主君の真意が伝わっているらしく、
『本日は二名にございます』
と答えた。
『けしからん』
藩主は吐き捨てた。
若侍と典医は頭を下げる。
『人を欺かぬ、人を裏切らぬ、そんな当たり前の事が何故下々の者達には出来ぬのだ。裏切りは万死に値する行為。命をもって償わせるが良い』
『はっ』
更に若侍が頭を下げる。
そうか。
『本日は二名』
とは、人を欺いた罪で裁かれる者の数なのだ。
これよりその者達が刑を処されるのだろう。
さやかと心太郎が聞いた話では、今やこの鳥飼は疑心と謀略の国に成り下がっている。
『他人を欺くべからず』という律は、憎き者を排除する為に利用されている。
何処の某に騙されたと虚偽の密告をするだけで、その某は確かな詮議もないまま処罰されてしまうのだ。
つまりはこれから処刑される者達も、他人を欺いた者なのか他人に陥れられた者かははっきりせぬという事である。
これでは逆に、嘘をつく者が得をする、正直者が損をする社会が出来上がるだけではないか。
心太郎は処刑される二人を助けなければ、と思い、さやかの気配を探った。
もしかしたらさやかが助けに動くかもと思ったからだ。
だが、さやかが動く気配はなかった。
今は藩主から目を離すわけにはいかないのだ。
心太郎が奥歯を噛み締める。
さやかは心太郎の気持ちを察しながらも室内の様子を窺い続けていた。
先程、一瞬だけ鈍い光が灯った鳥飼侯の目が、再びどろりと濁ったからだ。
光を失うと、そのまま藩主は口を開かなくなった。
典医が寄り添う。
『上様はお疲れになったようじゃ』
そう言って目配せすると若侍達が頭を下げて襖を開けた。
湯飲みの乗った盆を手にした典医が退出し、若侍がそれに続く。
一人になった藩主は、またごろりと横になった。
(なによ、あれ)
さやかが内心毒づく。
さやかからははっきりと見えたのだ。
典医が寄り添うようにして、鳥飼侯の首筋にこっそり針を刺した所が。
そういえば、あの男が渡した薬湯を飲んでから鳥飼侯は人が変わったように喋り始めたのである。
薬と針で操られているのか。
ならばあの十徳の男は、ただの典医などではあるまい。
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