2010-11-14(Sun)
小説・さやか見参!(5)
長い夜が明けた。
とはいえ、まぶしい朝日も差さぬどんよりとした朝だ。
鬱蒼と茂った山中にある蛇組の―
荊木流の砦は、より薄暗く見える。
この場所は日当たりが悪い、水はけが悪い、よって土地自体がじめっとした湿気を含んでいる。
くちなわはこの場所が好きではなかった。
昨夜はあれから、くちなわもみずちも無言のまま歩き、暗い内に砦に戻った。
忍びならば数日眠らずともなんと言う事はない。
砦に着いてすぐに朝の修行を済ませ、くちなわは社の前で立禅を行なっていた。
…この場所への嫌悪感、それは住みづらい土地へと追いやられたような劣等感が生む感情であった。
龍組…山吹の砦とは何たる差か。
山の頂きを切り拓き作られた砦。
陽差しを遮るものはなく、水はそこから湧いている。
全てが明るく清浄なあの場所ならば誰しもが笑顔で過ごせるに違いない。
脳裏に山吹たけるの屈託のない笑顔が浮かび、くちなわは気分が悪くなった。
山吹め。
みずち様率いる荊木流を差し置いて龍組に居座るとは。
みずち様ほどの腕を持った上忍が蛇組だと?
みずち様をこのような場所に…
『隙だらけじゃないか』
考えにふけるくちなわの背後で老女が口を開いた。
まったく警戒していなかったくちなわは慌てて飛び退き、振り返った。
そこに立っていたのは義理の母―みずちの奥方であった。
『は…母上?』
『何てざまだい。立禅にもなってやしない。本当にそれでも荊木の中忍かね。私が敵なら殺されてる』
立禅とは一定の姿勢で意識を鎮め、全身に気を巡らす修行だ。
当然雑念が入っては功はならない。
『…はっ…申し訳ありません!』
『これで荊木の跡取りが務まるのかねぇ…』
老女はため息をつくと、少女のようにいたずらっぽく笑った。
みずちの妻『かがち』(名前なのか肩書きなのか最後までくちなわには分からなかった)は、口は悪いが声にはいつも優しさが込められていた。
どのような経緯でみずちとめおとになったかは分からぬ。
しかし、みずちほどの忍びが娶るぐらいだから、よほど優秀なくのいちであった事は想像に難くない。
『くちなわ、あんたはね、感情に囚われ過ぎ。私はそこだけが心配だよ』
かがちは、心を読む術もみずちに引けを取らない。
『特にね、負の感情、陰の感情にあんたは弱いね』
『…』
『恨んだり憎んだり妬んだり、そんなものは何の役にも立ちはしないよ』
『…』
『だから、山吹を目の敵にするのはもうおやめ』
『…』
『お門違いってもんだよ。』
『しかし…』
『くちなわ、あんたは優しい子だ。
あんたがね、みずち様や荊木流の事を考えてくれてるのも分かる。
でもね、今の荊木流が蛇組を務めてる事を不満に思う必要はないんだよ』
『しかし、荊木流とて、かつては龍組を務めていた名門ではありませんか!
…それが、山吹ごときに龍を奪われ、このような扱いを…』
くちなわは思いの丈を全て吐き出していた。
これも、かがちなら全て受け止めてくれるという信頼あってのものだ。
実際くちなわは、かがちを本物の母のように思っていた。
かがちはかつて一人息子を亡くし(経緯は分からぬ)、それ以降子供が出来なかったらしい。
それゆえくちなわを我が子同然に育ててくれていたのだ。
その母の口から再びため息が漏れた。
『いいかいくちなわ。勘違いしちゃいけないよ。
12組ってのは優劣じゃないんだ。
主従関係でもないんだよ。役割なんだ。
あんただって任務の時には役割を与えられるだろ?
それぞれが一番適した任を割り振られてるんだ。
12組ってのはそういう事なんだよ』
『…』
『この土地を守る為に最善の働きが出来るように、それぞれの組が決められてるんだ。
荊木流はね、医術の腕を買われてるから蛇組なんだよ。
もし山吹が蛇組に就いたとして、私達と同じ事が出来ると思うかい?思わないだろ?』
古来『蛇』は、不死と再生を司ると言われている。
よって命に関わる、医術を得意とする流派が蛇組の任に当たるのだ。
そして近年の荊木流は他の追随を許さぬほどの医学を身に付けていた。
そして荊木流が蛇組に適するもう1つの特技、それは地中や水際での活動である。
人知れず地中に潜み、泥中を進み、任務を遂行する。
その修行の為に蛇組は―
みずちはこの湿地に砦を構えた。
水気の多い場所でこそ蛇組は活きる。
蛇組頭領に与えられる『みずち(蛟)』というのは雌伏の龍であり、水の霊力を意味する言葉なのだ。
だがくちなわは、この『みずち』という称号にも不満を持っていた。
『母上!わたくしはみずち様こそ最高の忍びだと確信しております!
山吹など足元にも及ばぬ腕の持ち主だと!
しかしながら…
みずちという名も皮肉なものではありませんか!
活躍の機会を待ちじっと潜んでいる龍、しかも泥にまみれて!
山吹の頭領は偉そうにふんぞりかえっているというのに!!』
『いい加減になさい!』
かがちはくちなわの暴言をぴしゃりと止めた。
『くちなわ、あんたの気持ちは嬉しい。
でもね、みずちの名を冒涜するって事はみずち様本人を、そして荊木流全体を侮辱する事になるんだよ。
それぞれの流派がそれぞれの長所を活かす、それでいいじゃないか』
『…』
『それに今、12組をまとめる力を持ってるのは山吹なんだよ。
それは全ての流派が認めてる。
山吹の頭領は他人を従えてふんぞりかえるような人物じゃないよ』
『…』
『なんだい黙りこくっちゃって。子供かいあんたは』
かがちは優しく笑った。
『わたくしは…みずち様に、龍組の頭領になっていただきたかったのです…』
くちなわはまるで泣きそうな顔でそう言った。
みずちの年齢を考えると今回が最後の機会であった。
くちなわは生涯に一度だけでも、みずちを龍組頭領に就かせたかったのである。
『あんたは…優しい子だねぇ。
でもね、みずち様も年が年だ。
今から12組をまとめるのは厳しいよ。
なにより本人がそんな事望んじゃいない』
『…』
『くちなわ、あんたが上忍になって、荊木流を継いで、立派な頭領になったら、荊木流は龍組になれるかもしれないよ。
ただね、肩書きや地位にしがみついちゃいけない。
執着は心を汚して身を滅ぼすからね。』
『…分かりました…』
かがちは笑ったような怒ったような声で
『なんだい!全然納得出来てないって返事だね!
ほれ!立禅の続きをやんな!
心が鎮まるまでやめるんじゃないよ!』
そう言って社の陰に去っていった。
一瞬じめっとした冷たい風が吹いた。
残されたくちなわの心が鎮まる事はなかった。
とはいえ、まぶしい朝日も差さぬどんよりとした朝だ。
鬱蒼と茂った山中にある蛇組の―
荊木流の砦は、より薄暗く見える。
この場所は日当たりが悪い、水はけが悪い、よって土地自体がじめっとした湿気を含んでいる。
くちなわはこの場所が好きではなかった。
昨夜はあれから、くちなわもみずちも無言のまま歩き、暗い内に砦に戻った。
忍びならば数日眠らずともなんと言う事はない。
砦に着いてすぐに朝の修行を済ませ、くちなわは社の前で立禅を行なっていた。
…この場所への嫌悪感、それは住みづらい土地へと追いやられたような劣等感が生む感情であった。
龍組…山吹の砦とは何たる差か。
山の頂きを切り拓き作られた砦。
陽差しを遮るものはなく、水はそこから湧いている。
全てが明るく清浄なあの場所ならば誰しもが笑顔で過ごせるに違いない。
脳裏に山吹たけるの屈託のない笑顔が浮かび、くちなわは気分が悪くなった。
山吹め。
みずち様率いる荊木流を差し置いて龍組に居座るとは。
みずち様ほどの腕を持った上忍が蛇組だと?
みずち様をこのような場所に…
『隙だらけじゃないか』
考えにふけるくちなわの背後で老女が口を開いた。
まったく警戒していなかったくちなわは慌てて飛び退き、振り返った。
そこに立っていたのは義理の母―みずちの奥方であった。
『は…母上?』
『何てざまだい。立禅にもなってやしない。本当にそれでも荊木の中忍かね。私が敵なら殺されてる』
立禅とは一定の姿勢で意識を鎮め、全身に気を巡らす修行だ。
当然雑念が入っては功はならない。
『…はっ…申し訳ありません!』
『これで荊木の跡取りが務まるのかねぇ…』
老女はため息をつくと、少女のようにいたずらっぽく笑った。
みずちの妻『かがち』(名前なのか肩書きなのか最後までくちなわには分からなかった)は、口は悪いが声にはいつも優しさが込められていた。
どのような経緯でみずちとめおとになったかは分からぬ。
しかし、みずちほどの忍びが娶るぐらいだから、よほど優秀なくのいちであった事は想像に難くない。
『くちなわ、あんたはね、感情に囚われ過ぎ。私はそこだけが心配だよ』
かがちは、心を読む術もみずちに引けを取らない。
『特にね、負の感情、陰の感情にあんたは弱いね』
『…』
『恨んだり憎んだり妬んだり、そんなものは何の役にも立ちはしないよ』
『…』
『だから、山吹を目の敵にするのはもうおやめ』
『…』
『お門違いってもんだよ。』
『しかし…』
『くちなわ、あんたは優しい子だ。
あんたがね、みずち様や荊木流の事を考えてくれてるのも分かる。
でもね、今の荊木流が蛇組を務めてる事を不満に思う必要はないんだよ』
『しかし、荊木流とて、かつては龍組を務めていた名門ではありませんか!
…それが、山吹ごときに龍を奪われ、このような扱いを…』
くちなわは思いの丈を全て吐き出していた。
これも、かがちなら全て受け止めてくれるという信頼あってのものだ。
実際くちなわは、かがちを本物の母のように思っていた。
かがちはかつて一人息子を亡くし(経緯は分からぬ)、それ以降子供が出来なかったらしい。
それゆえくちなわを我が子同然に育ててくれていたのだ。
その母の口から再びため息が漏れた。
『いいかいくちなわ。勘違いしちゃいけないよ。
12組ってのは優劣じゃないんだ。
主従関係でもないんだよ。役割なんだ。
あんただって任務の時には役割を与えられるだろ?
それぞれが一番適した任を割り振られてるんだ。
12組ってのはそういう事なんだよ』
『…』
『この土地を守る為に最善の働きが出来るように、それぞれの組が決められてるんだ。
荊木流はね、医術の腕を買われてるから蛇組なんだよ。
もし山吹が蛇組に就いたとして、私達と同じ事が出来ると思うかい?思わないだろ?』
古来『蛇』は、不死と再生を司ると言われている。
よって命に関わる、医術を得意とする流派が蛇組の任に当たるのだ。
そして近年の荊木流は他の追随を許さぬほどの医学を身に付けていた。
そして荊木流が蛇組に適するもう1つの特技、それは地中や水際での活動である。
人知れず地中に潜み、泥中を進み、任務を遂行する。
その修行の為に蛇組は―
みずちはこの湿地に砦を構えた。
水気の多い場所でこそ蛇組は活きる。
蛇組頭領に与えられる『みずち(蛟)』というのは雌伏の龍であり、水の霊力を意味する言葉なのだ。
だがくちなわは、この『みずち』という称号にも不満を持っていた。
『母上!わたくしはみずち様こそ最高の忍びだと確信しております!
山吹など足元にも及ばぬ腕の持ち主だと!
しかしながら…
みずちという名も皮肉なものではありませんか!
活躍の機会を待ちじっと潜んでいる龍、しかも泥にまみれて!
山吹の頭領は偉そうにふんぞりかえっているというのに!!』
『いい加減になさい!』
かがちはくちなわの暴言をぴしゃりと止めた。
『くちなわ、あんたの気持ちは嬉しい。
でもね、みずちの名を冒涜するって事はみずち様本人を、そして荊木流全体を侮辱する事になるんだよ。
それぞれの流派がそれぞれの長所を活かす、それでいいじゃないか』
『…』
『それに今、12組をまとめる力を持ってるのは山吹なんだよ。
それは全ての流派が認めてる。
山吹の頭領は他人を従えてふんぞりかえるような人物じゃないよ』
『…』
『なんだい黙りこくっちゃって。子供かいあんたは』
かがちは優しく笑った。
『わたくしは…みずち様に、龍組の頭領になっていただきたかったのです…』
くちなわはまるで泣きそうな顔でそう言った。
みずちの年齢を考えると今回が最後の機会であった。
くちなわは生涯に一度だけでも、みずちを龍組頭領に就かせたかったのである。
『あんたは…優しい子だねぇ。
でもね、みずち様も年が年だ。
今から12組をまとめるのは厳しいよ。
なにより本人がそんな事望んじゃいない』
『…』
『くちなわ、あんたが上忍になって、荊木流を継いで、立派な頭領になったら、荊木流は龍組になれるかもしれないよ。
ただね、肩書きや地位にしがみついちゃいけない。
執着は心を汚して身を滅ぼすからね。』
『…分かりました…』
かがちは笑ったような怒ったような声で
『なんだい!全然納得出来てないって返事だね!
ほれ!立禅の続きをやんな!
心が鎮まるまでやめるんじゃないよ!』
そう言って社の陰に去っていった。
一瞬じめっとした冷たい風が吹いた。
残されたくちなわの心が鎮まる事はなかった。