2010-11-22(Mon)
だが、ミズチは
『かすみはいずこからか送り込まれた間者である』
という確証を得る事が出来なかった。
病に倒れたのである。
いや、正確には病ではない。
毒を盛られたのだ。
ミズチほどの上忍に毒を盛れる者がいるのだろうか?
実は、ミズチの身体には長い年月をかけてわずかな毒が蓄積していたのだ。
かすみのしわざか?
かすみにそれほどの手腕はあるまい。
やはり『かすみを送り込んで来た者』のしわざだ。
荊木の砦の最も奥まった場所にミズチの屋敷はあった。
山から吹き下ろす風はみずちの屋敷を通ってから砦全体に行き渡る。
その山に―
毒を染み込ませた者がいる―
長い、長い年月をかけて―
誰にも気付かれぬほど、少しずつ、少しずつ―
湿った大地は徐々に侵され、朝日を受ければ毒のもやを発生させた。
植物は毒水を吸い上げ、毒の花粉を吐いた。
こうして荊木の砦と忍び達は気付かぬ内に蝕まれていたのである。
超感覚を持ったミズチは気付けなかったのだろうか?
全く気が付かなかったのだ。
植物が枯れる事もなく、生物が命を落とすワケでもない微量の毒。
大自然が気付かぬものには忍者といえど気付けない。
己は自然の一部と悟る所から忍びの修行は始まるのだ。
だが―
そんなわずかな毒でも蓄積されれば威力を発揮する。
風上で常に毒風を浴びていた老忍が変調をきたしたとしても仕方のない事であった。
当然ながら、かがちやくちなわ、他の者達も毒に侵されてはいたのだが、この場合ミズチの『神懸かり的に鋭敏な肉体』が仇になったと思われる。
宇宙と一体となり、あらゆる事象を感じ取れる程の鋭敏さは、害をなすものに気付かなかった場合、弱点となる事もあるのだ。
ミズチは身体の変調に気付いてすぐに毒の対処に当たった。
医学薬事に優れた蛇組をして、それは簡単かと思われたのだが…
この毒に効くものは見つからなかった。
全く白紙の状態から解毒薬を作り出さなければならなかったのだ。
これには時間がかかる。
まずは使われた毒の成分から調べなければ。
ミズチは己の身体を実験材料として新薬の開発に当たった。
そんな中、ミズチはくちなわを呼んだ。
今や寝たきりに近いミズチは、朽ちた老木のようにも見えて、くちなわは言葉を失った。
ミズチは、唇をわずかに震わせて語り始めた。
2010-11-21(Sun)
ミズチは自らかすみの様子を探った。
かすみの巧妙さは配下の忍びでは見破れぬかもしれなかったからだ。
かすみはこれほどの手練れであったか?
いや、
幼き頃より見てきたが、決してそうではない。
おそらくかすみはただ命じられたままに動いているだけだ。
この状況を仕組んだ者こそ手練れなのだろう。
と言う事は、荊木に拾われた時点で何やらの企てが始まっていたという事か。
だとしたら、見抜けなかった自分自身の責任だ。
ミズチは己を責めていた。
もしこれが事実だったとしたら、くちなわは何と思うだろうか。
くちなわが妻を、かすみを心から愛しているのは分かっている。
ならば、その愛する妻が自分を裏切っていたと知った時―
くちなわの精神はどうなってしまうのか。
ミズチはそれを案じた。
夜明け前―
屋敷の中でミズチは静かに座し、心を虚空とした。
これで外界の全てがありのままに入ってくる。
屋敷の壁の向こうから気配が伝わる。
みずちの屋敷の南側、
畑を兼ねた小さな庭の向こうにはそれほど大きくない池がある。
今のミズチには、畑で蟲が跳ねるのも水面をみずすましが滑るのも目に見えるように分かった。
池の隣りには蛇神を祠った社があり、その裏手にくちなわとかすみが暮らす小さな小屋がある。
ミズチは虚ろになった精神を宇宙と直結する。
あらゆる現象がはっきりと脳裏に像を結ぶ。
小屋の戸が開いた。
驚いてイタチが逃げる。
くちなわが小屋から出て社に向かう。
いつもの如く朝の修行だ。
夜明けを感じて気の早い鳥が鳴く。
かすみはいつものように食事の支度を始める。
軽やかな鼻歌。
大根葉を切る小刀の音。
社の前でくちなわが立禅を始める。
静かな呼吸。
意識が鎮まっていくのさえ伝わってくる。
池で魚が水音を立てた。
一見すれば穏やかな朝の風景。
しかしミズチは気付いていた。
イタチの駆ける音、
鳥のさえずり、
鼻歌、小刀の音、
魚の上げた飛沫…
それらこそが、かすみと何者かのやりとりなのだ。
みずちはいち早くくちなわに伝えたかった。
だが今は言えぬ。
探られている内容が分からぬからだ。
それなりの確証を突き付けねばくちなわは納得すまい。
そして諦める事も出来まい。
何としても確証を見つけなければ。
2010-11-17(Wed)
暑さや寒さは目には見えぬ。
時の流れもまたしかり。
ただ、それらを一身に受けた木々は愚直なまでに姿を変える。
12組の忍び達を取り巻く風景は一巡りしていた。
荊木流のくちなわが己の妻を殺したそうだ。
痛ましい事件は、季節の移ろいを運ぶ風と共に一瞬で広まった。
12組を束ねる龍組の長である武双の元にもその報告はいち早く届いた。
武双は思い返す。
善きにつけ悪しきにつけ、まっすぐにしか物を見る事の出来ぬ不器用な蛇組の上忍を。
くちなわには十数年連れ添った妻がいた。
なれそめまでは知らぬ。
しかしかつて荊木流頭領ミズチが語った所によると ―
2人の出会いは、くちなわがミズチに拾われて間もなく。
つまり幼少の頃だ。
後に妻となる少女 -名を『かすみ』という- も、荊木に拾われた1人だ。
2人は同じ境遇だったのである。
厳しい修行の中でくちなわが腹を割って話せるのはかすみしかいなかった。
またかすみもくちなわにだけは本音で語った。
決して弱音を吐かぬくちなわであったが、かすみの前ではそれを晒した。
夢を語る事もあった。
忍びとして捨てたはずの感情も全てかすみには見せていたのである。
そしてかすみはそれを受け入れ、くちなわの唯一の拠り所となっていた。
武双は思う。
もっと出会いが遅ければ…
せめてくちなわがそれなりの忍びとなり、感情を殺す術を知ってから出会っていれば…
これほどかすみを頼らずに済んだであろうに…
自制の利かぬ幼少時に出会ったが為に、かすみに対する障壁が形成されなかったのだ。
忍びたる者、身内すら疑う慎重さが必要だというのに…
やがてくちなわは、うろこと呼ばれる下忍から中忍を経て今の地位に昇格した。
そしてそれを機にかすみを娶った。
十八の時である。
くちなわがいかにかすみを大切にしていたか、それを知る者は少ない。
妻となってなお、くちなわにとってかすみは唯一の拠り所だったのである。
この頃、さしものミズチもかすみを疑う事はなかった。
だが年月が経つにつれ…
かすみの行動に不審を抱くようになっていたのである。
一見すると怪しむべき所などない。
しかし近年のかすみは、ミズチほどの忍びが見れば充分怪しむに足る女に変わっていたのである。
ミズチは確信していた。
かすみは他流派から送り込まれた間者だと。
2010-11-16(Tue)
『さやか、あんな遠くから足音が聞こえたぞ。気をつけなきゃ駄目だろう』
『隠さなかっただけよ。どんなに気をつけてもおにいちゃんには聞こえちゃうもん。私、無駄な事はやらないの~』
幼くても女は弁が立つ。
『…まったく…朝の修行は終わったのか?真面目にやってきたんだろうな?』
『あったりまえじゃない!おにいちゃんがいつも言ってるもん。一生懸命修行しなきゃ立派な忍者になれないって。』
『そうか。さやかは偉いな』
『でも…正直、他の子達に合わせてると退屈しちゃう。わたしはおにいちゃんとの修行が一番楽しいもん』
さやかは兄の事が大好きだ。
兄として、人間として、そして忍びとして尊敬している。
いずれはたけるのような忍びになりたい、と思っている。
それゆえさやかは人一倍、いや並の忍者の何倍も修行に励んだ。
そもそも同じ山吹の忍びとはいえ、さやかはただのくのいち。
たけるはと言えば次期頭領なのである。
求められる技量が違う。
よって修行の厳しさもまるで違う。
おそらく並の忍びならばたけるに付いて行く事さえままならぬだろう。
それほどの修行を平然とやってのけるたけるの凄さを知る者は少ない。
本来修行の内容は他人に明かすものではない。
手の内を盗まれぬ為に隠さねばならないのだ。
己の技を知られる事、それが死につながる事は多い。
たけるの厳しい修行も当然余人の知るところではなかった。
ただ、さやかは全てを知っている。
たけるのようになりたいと願うさやかは、己の修行とは別にたけるの手ほどきを受けていた。
教え始めて2年。
さやかの技量は他の子供達を遥かに引き離していた。
最初は妹をあやすつもりで教えていたたけるだったが、自分の技をみるみる吸収していく幼い妹に驚愕を覚えたほどだ。
さやかは厳しい修行でも弱音を吐く事はない。
しかし喜怒哀楽は激しく、楽しければ笑い、悔しければ泣き、仲間とケンカになれば声をあげて怒った。
たけるはそれを見て安心していた。
さやかには、子供らしい、人間らしい感情がある。
それが嬉しかった。
2人の母親は、さやかが1歳にもならぬ頃に失踪している。
何があったのかを父が語る事はなく、たけるにも真相は分からない。
だがそれからは、たけるが母親代わりとしてさやかを育てた。
たけるにとってさやかは『妹』であり『我が子』でもあるのだ。
忍びの道という厳しい環境の中で我が子が感情を失っていない事に―
むしろ人よりもそれが豊かな事に、たけるは喜びを覚えていたのだ。
一流の忍びともなれば自らの感情を表に出す事は許されない。
いや、心中の揺らぎさえあってはならぬ事だろう。
当然たけるとてそう教えられてきた。
しかしたけるは喜怒哀楽の全てを消す事が出来なかった。
『喜』と『楽』。
この2つに関しては殊更、である。
かつて、さやかが産まれてすぐ―
母親の腕に抱かれたさやかを見て目を細めるたけるに、父、武双は言った。
『たける、心を動かしてはならんぞ。赤子ゆえ可愛い、妹ゆえ愛しい、そう思ってはいかん。可愛いければ、愛しければ守りとうなる。守りたいという気持ちは判断を鈍らせる…』
たけるは一瞬神妙な顔になり、武双の顔を真似てしかめっ面になった。
だが、
再び妹に目をやると―
そのいかめしい表情は一瞬で崩れた。
『無理です父上!やっぱり可愛いものは可愛いですよ!』
そう言って、蕩けんばかりの笑顔で妹をあやす兄の姿に母は微笑み、父はうなだれたのだった。
このような兄に育てられたからこそ、さやかも感情豊かなのかもしれない。
『おにいちゃん!もうお仕事は終わったんでしょ!?修行しよ!…あれ教えてよ!水に潜るやつ!』
『あぁ、残念だけどな、仕事、あと少し残ってるんだ』
『えぇーっ!もう終わってると思って急いで帰って来たのに!じゃあ急いで終わらせて!』
頬をふくらませてワガママを言う姿はやっぱりただの子供だ。
『分かったよ。言われなくても急いでやらなくちゃいけないんだから』
『いま休憩してたくせに』
『少しだけだよ』
『おにいちゃんが休まないように隣りで見張ってるからね』
『見張りがなくったってちゃんとやるよ』
『だ~め』
『はぁ…分かったよ。でも集中してやりたいから邪魔はしないでくれよ』
『邪魔なんかしないよー!隣りでお話するだけ!!』
『それが邪魔なんだけどなー…』
妹に振り回されっぱなしのたけるであった。
2010-11-15(Mon)
厚い雲が分散され、隙間から差し込んだ光が山吹の砦を照らした。
屋敷から出て来た山吹たけるは太陽の光を浴びながら「う~ん」と背伸びをした。
昨夜の会合は山吹の里で行われた為、他の組よりは遥かに早く帰宅している。
しかし、山吹が再び龍組に選出された事で、各組に送る書状を急ぎ書き記す必要があったのだ。
12組内での取り決めや要望、今後についてなど、「前回までと同じ」と書くわけにもいかぬから、1つ1つ事細かに記載し、結果膨大な量になる。
それらを8割方終わらせた所で陽が差したのに気付き、少し休憩に出たのだ。
穏やかな顔をした若者。
表情だけならば、争いや諍いとは無縁の生き方をしてきたように見える。
ましてや、やがて名門・山吹を継ぐ忍者だなどと誰が思うだろう。
それが、
くちなわが敵視し恐れている山吹たけるなのである。
そのたけるの元へ、小さな、小さな足音が小刻みに迫った。
たけるがふっと笑って見ると―
遠くの丘から子供が駆け下りてくるところだった。
何やら叫んでいるようだが遠過ぎて聞こえない。
いや、常人には聞こえずともたけるには聞こえていたはずだ。
遠くから駆けて来る足音にもすぐに気付いたぐらいなのだから。
その聴力のみならず、たけるの感覚はもはや超能力と呼ぶに相応しかった。
一方、駆けてくる子供は、
あっと言う間にたけるに近付いていた。
人ならざる速さの、
女の子であった。
まだ4つか5つか、年齢はそのぐらいであろう。
左右で結んだ髪。
輝かんばかりの笑顔。
鮮やかな桜色に染められた忍び装束を身に着けている。
そう。
この子も幼いながら、たけると同じく忍者なのだ。
『おにいちゃーん!たけるにいちゃーん!』
ものすごい速さで走ってきた少女は、その勢いを落とす事なくたけるに跳び付いた。
たけるはそれを『ふわり』と受け止めた。
『さやか!今の勢いで跳び付くなんて殺人行為だぞ!』
『だってだって、ずっとおにいちゃんの帰りを待ってたんだもん!』
『だからと言って…』
『それにおにいちゃんならちゃんと受け止めてくれるでしょ?』
『そりゃそうだけど…』
たけるが半ば呆れて、困ったように見ると、少女は『えへへ』と笑った。
屈託のなさはたけるによく似ている。
この少女は山吹さやか。
たけるの、年の離れた妹だ。