2010-11-27(Sat)
まるで探るような鳥の声に、かすみは小さく反応した。
くちなわはそれを見逃さず、含みを持たせて訊く。
『どうかしたか?』
かすみは無言で、何事もないように首を横に振る。
鳥の鳴き声は二羽三羽と増えていく。
『せっかく静かになったと思うたに…空に囲いは作れぬからなぁ…』
くちなわは笑う。
一羽が鳴く、しばし黙る。
二羽目が鳴く、また黙る。
『鳥同士も会話するのであろうなぁ。
まるで返事を待って語りかけておるようだ。
はたして鳥どもはどんな話をするのであろうな?
鳥の言葉が分からぬのが残念だ。』
かすみは、
くちなわの一言一言に恐れおののいていた。
これはおそらく―
見抜かれている。
やはりミズチの元へ呼ばれたのはその事であったか。
だが、かすみは態度を変えるわけにはいかない。。
『おや』
くちなわが外をうかがうように視線を動かした。
『小屋の周りを何やら走っておるな。
この足音はイタチか。
はて…昨日までのやつはもうおらぬはずだが…
…という事は別のやつか。
この家にはイタチの好物でもあるのではないか?はっはっは』
笑顔を絶やさずに自分を追い詰めようとする夫にかすみは焦れた。
その様子を見てくちなわが言う。
『落ち着いて座っておれ』
くちなわとかすみは、黙って見つめ合った。
かなり長い間―
その視線の交わりに愛などなく、ただ―
お互いの腹を探り合う忍びの鋭さが火花を散らしていた。
そのかすみの表情が、
ふっ
と緩んだ。
かすみは観念したかのような笑顔で
『やれやれ』
と立ち上がり、早朝に使っていた小刀を手に取った。
外はもう陽が落ちかけている。
かすみはその小刀で、まな板を何度か叩いた。
そして
『獣どもに伝えたよ。…とうとうバレた、ってね』
『やはり…違う事を願っていたが…』
『あ~あ、やっぱりミズチにはバレたかぁ。おまえさんだけなら一生気付かなかっただろうね』
そう言って、またまな板を叩く。
『あたしの事がバレたんなら次の手を打たなきゃいけないからねぇ』
くちなわの腰から白刃が走った。
かすみの右手の指が刎ね飛ばされた。
五本の指と小刀が床に落ちた時には左の指も切り落とされていた。
かすみは一瞬、表情に恐怖を浮かべたが―
すぐに憎々しげに笑みを浮かべた。
2010-11-26(Fri)
『かすみ、とにかく座ってくれ』
穏やかながらも威圧するようなくちなわの声に、かすみは板の間に上がり座った。
くちなわもその向かいに腰をおろす。
微妙な距離だ。
めおとの距離ではないように思う。
くちなわは微笑んで、しかし一言も発さずにかすみを見つめている。
かすみは目に見えぬ槍に射貫かれたような錯覚を覚えて顔を背けそうになった。
『…おまえさん…?』
『喋らずとも良い』
かすみの言葉をくちなわは即制した。
『ただ、黙ってそこに座っていてくれぬか』
そう言われてはかすみも黙るしかない。
その困ったような、戸惑ったようなかすみの表情を見てくちなわは思う。
愛しい。
敵かもしれぬ、
裏切り者かもしれぬこの女を、自分はまだ愛しいと感じてしまうのか。
まっすぐに見つめる瞳、
小首をかしげる仕草、
膝の上で重ねられた細い手…
全てくちなわが愛してきた妻のままだ。
もしもこの女が敵であったなら…
いや、そうであって欲しくはない…
その逡巡がくちなわの表情を、泣きそうな、しかし嬉しそうなものにしていた。
微妙な距離を保ち、互いに複雑な表情で黙って見つめ合う二人…
いずれにしてもこれは、めおとが終わる瞬間の光景ではないだろうか。
耐えきれずくちなわが口を開く。
『いやぁ、なかなか骨が折れた。
獣や鳥どもの巣を探すのに手間取ってな。
そこらを走り回ってくれれば仕留めるのは容易いが、巣に潜んでおるものもいるからな。』
かすみは黙って聴くしかない。
『それにしても更に苦労するのは魚どもだ。
日中なら何と言う事もなかろうが、いかんせん夜の事。
水の中は見えづろうてな。
ミズチ様ならば水中の闇といえど自由自在…まだまだ俺も修行が足らん…
あの池が深うないのが救いであったわ。はっはっは』
一見軽口に聞こえるが、この一言一言が、じわりじわりとかすみを追い詰めていた。
腰を浮かせようとするかすみをくちなわが黙ったまま片手で制する。
かすみが腰をおろす。
『とは言え、鳥や獣どもはまた増えるのであろうな。
どこからともなく飛んできてこの山に巣くう。
別の巣を離れ、この地に棲み付く…』
そのままくちなわは黙った。
かすみも黙った。
長い、長い時が流れた。
そして―
永遠にも思える沈黙の果てに、
また鳥が鳴いた。
2010-11-25(Thu)
かすみが目を覚ますとすでに空が白々としていた。
夫の帰りを待ち疲れて、いつの間にか寝てしまったらしい。
くのいちらしからぬ…
かすみは自嘲した。
くちなわはまだ帰っていない。
昨夜みずち様に呼ばれて行ったきり、夜通し何の話をしているというのだろう?
胸騒ぎがした。
しかし…今はただ夫の帰りを待つしかない。
出来るだけ平常を装って。
沈黙が流れる。
時が止まったかのような焦燥感…
…沈黙?
そういえばおかしい。
獣が草を駆ける足音、仲間を呼ぶ鳥の声、池で魚達が跳ねる音…
いつもならば聞こえているハズの音が何も聞こえてこないのだ。
思わず外に飛び出したい衝動に駆られる。
しかし普段と違う行動をするわけにはいかない。
どんな小さな綻びも作ってはならぬ。
帰りが遅い夫を心配して表に出る。
これなら自然なのではないか?
そう考えて立ち上がり、外に出ようと戸に駆け寄る。
かすみの足に何かが当たった。
かがちからもらった白菜だ。
かすみはそれを手に取った。
小刀を使い、葉を2枚剥いで汲み置きの井戸水できれいに洗う。
水気を払い、まな板の上で小気味良く切る。
いつもの音。
かすみは手を止めて耳をすます。
やはり何も聞こえない。
もう一度小刀を動かす。
音―
耳をすます。
無音―
かすみはとうとう耐えきれなくなり、戸に手をかけた。
だがその戸は、別の者の手によって力強く開かれた。
暗い小屋の中に光が差し込む。
眩しい光を背に
抜き身を握りしめた
くちなわが立っていた。
その背後には
累々と獣達の屍が転がっていた。
『待たせたな、かすみ』
いつもの笑顔だ。
『おまえさん…これは、一体…?』
かすみは獣の骸と、そして血に濡れた忍び刀を見た。
『あぁ、何ということはない。
最近は修行中に獣達の声が耳に障ってな。邪魔にならぬよう静かにしてもらったのだ。
ミズチ様からは、それしきで心乱されるなど修行が足らん、と叱られたがな。はっはっは』
くちなわは懐紙で血をぬぐった刀を腰に納めた。
『おぅ、飯の支度中であったか』
まな板の白菜を見てそういうくちなわ。
『あ、すぐに』
再び小刀を取ろうとするかすみ。
『飯は後で良い』
くちなわが制した。
『まぁ座れ、かすみ』
2010-11-24(Wed)
『我ら荊木の医術を盗む為…いや、まずは我らが解毒薬を探っておったに相違あるまい』
ミズチはもはや喋る事すら苦しそうだ。
だがその眼は執念に燃えている。
『解毒薬を?』
『さよう。わしの身体を蝕むこの毒、知っての通り荊木では解毒出来ぬものじゃ。
奴ら一角衆はかすみを使い、我らが持つ解毒薬を全て知ったのであろう。』
『…そして、荊木では対応出来ぬ毒を作り出し、この砦に撒いた…と?』
『確実にわしを殺す為にな。ありきたりな毒など我らに通用せぬ事を知っておるのだ、一角衆は。』
『…信じられませぬ…かすみが荊木に来た時はまだ4つか5つ…そのような昔から…』
『くちなわ、一角衆を侮るな。奴らは我らとは全く違う世界に生きておる。油断すると、地獄へ引きずり込まれるぞ。…わしのようにな…』
ミズチは深く呼吸をして、遠くを見た。
『…ミズチ様、今日はもうお休み下さい…』
くちなわはそう言うのがやっとだった。
敵の術中に嵌まり、まさに命のともしび尽きようとしている我が師の姿。
それに荷担しているかもしれない我が妻。
何を、どう考えれば良いのか…
すでに陽が暮れていた。
くちなわがみずちの屋敷を出るとふくろうが鳴いた。
いつも以上に耳につく。
『全ての音を疑え』
という師の言葉が引っ掛かっているのだろう。
池の淵を通ると水音がした。
それすらも気になって―
くちなわは妻の元へ帰るのをためらい、社の石段に座った。
つぶれたような声で蛙が鳴く。
確かに…
荊木の医術について、くちなわはかすみに何度か話した事がある。
あれは、何気なくかすみから訊いてきたのではなかったか。
もし、かすみが本当に一角衆の間者ならば、
秘伝をぺらぺらと喋った己こそ一番の罪人ではないか。
それだけではない。
ミズチとかがちが留守の際、屋敷をかすみに任せた事がある。
あの時ならミズチの持つ伝書を調べられたのではないか。
あれもかすみを推したのは自分だ。
全ての元凶は自分だったのではないか。
師の教え通りに感情を殺す事が出来ず、愛に溺れてしまった我が大罪…
いや、
まだ妻が間者だと決まったワケではない。
ならば確かめよう。
確かめて違うと確認出来れば良いのだ。
だがどうやって?
ミズチは言った。
全ての音を疑え、と。
2010-11-23(Tue)
『くちなわよ、わしは今から、おまえにはつらい話をせねばならん。
この話を聞いても、おまえは納得せんじゃろう。
感情を殺せぬおまえの事じゃ、
おそらくは怒りにはらわたが煮えくり返るやもしれぬ。
だが、
黙ってわしの話を聞いてくれぬか。
わしはもう長くはない。
わしの後はおまえに荊木流を託す。
だが今回は、頭領としてのわしの話を聞いてくれぬか』
くちなわは耳を疑った。
ミズチの、こんな弱々しい言葉を聞いた事はなかったからだ。
これは誰とも分からぬ別人ではないのか?とさえ考えた。
実際ミズチが持ち直す可能性は低い。
時間の問題だ。
だが今は悲しみよりも、ミズチの症状を研究し、解毒薬を作り出す事が先決であった。
『もちろんです。ミズチ様』
くちなわは平静を装って、低く落ち着いた声で答えた。
『おまえの妻、かすみ…あの女は、一角衆の間者だ』
『な…』
さすがに動揺を隠せずに声をあげる。
『何をおっしゃいます!?
かすみとは連れ添うて…いえ、出会ってからの全てを知っておるほどの間柄!
長年見ておりますが、妻に怪しむ所などありませなんだぞ!?』
『どう思ってもかまわん。だがとりあえず聞いてくれ。
今回の件で分かった。これは一角衆のやり方じゃ。』
『一角衆とは、修験道から派生したと言われている宗教まがいの忍び集団ですな。
妻が…かすみがその一角衆の間者ですと?
ミズチ様、確証があってのお言葉でしょうな!?』
『一角衆の狙いは我ら荊木流じゃ。
我らが狙われたという事は、山吹や他の流派にも手が及んでいるかもしれぬ。
奴らの計画は実に巧妙じゃ。
わしを殺し、荊木流を潰す為に、かなり昔からじわりじわりと企てを進めておったらしい。
おそらくはくちなわ、おまえが生まれた辺りまでさかのぼるぞ』
『そのような頃から!?』
『一角衆とはそのような連中じゃ。
かすみは一角衆に産まれたおなごじゃろう。
赤子の頃より子守歌代わりに暗号獣語の類いを聴いて育ったのであろうな。
くちなわ、かすみの発する他愛もない音、言葉、決して聴き漏らすな。
かすみの周りの音は、風の音、鳥の声、蟲の羽音、全て疑え。
他者には決して分からぬような暗号のやり取りになっておる』
『しかし…だとしたら、かすみは一体何を探っているのです!?』