2015-08-01(Sat)
断はうなだれたまましばらく言葉を失っていた。
イバラキも無言のまま、ただ断を見下ろしていた。
『昔はよ』
断がぽつりと呟く。
『昔は楽しかったぜ。ま、血讐のじじぃに偉そうに命令されるのはしゃくに触ったがよ、それでも封と一緒に戦いに明け暮れて、敵を追い込んで追い込んで、向かってくる奴は返り討ちにしてよ、そんな日々が楽しかったんだよ』
そう言うと顔を上げてイバラキを見る。
『蛇組のくちなわを追い込んだ時もな』
イバラキは表情を変えない。
それでも心中に、一角衆の策略に嵌り人生の全てを失った若き日の自分を思い浮かべていた。
『山吹の連中を操っておまえを襲わせたんだよな、おまえを孤立させる為によ。筋を書いたのは血讐のじじぃだったがな、じじぃの目論見通りに罠に嵌っていくおまえを笑いながら見てたよ、あの時の俺達は』
『拙者が未熟だった。ただそれだけの事よ』
『そうかもしれねぇ。でも実際えげつないよな、血讐の考える事は。信じさせて裏切って、信じさせて壊して、そうして心を蝕んでいく。あんたん所には今でも送り込まれてくんだろ、女房と同じ名前のくのいちが』
『あぁ。これまで何人のかすみに会ったか、もう数え切れぬ』
『だよな。じじぃも飽きずによくやるよ』
『奴は拙者を、いや、荊木流を恨んでおるからな』
『みたいだな。それは感じてたぜ』
断が立ち上がった。
『じじぃと荊木流の間に何があったんだよ。あのじじぃ、訊いても教えちゃくれねぇ。なぁ、せっかくだから教えてくれねぇか。どうせ俺はもう死ぬんだろ。冥土の土産にさ』
断はなんだかさっぱりした表情になっていた。
それを見てイバラキがふふんと笑う。
『まぁ教えんだろうな。今更おぬし達に恥を露呈したくもなかったのであろう』
『恥?』
『そうだ。それはまだ、拙者がみずち様に拾われる前の事だ』
イバラキは、かつて義父に聞いた話を語り始めた。
2015-06-13(Sat)
『なぜ、おぬし達をすぐに殺さなかったか…』
イバラキが、低く、ゆっくりと呟いた。
そして
低く、ゆっくりと笑った。
『ふっ、くくくく…』
断が意表を突かれて目を見開いた。
『教えてやろう、断よ。誇り無き者など殺したところでつまらんからだ。殺すに値せぬからだ』
イバラキは堪えきれぬように笑いながらそう告げた。
『な、なんだと!?』
断がどうにか立ち上がる。
殴られた苦しさよりも怒りと悔しさが勝ったらしい。
『本気の敵を軽くいなして倒すのがおぬしの誇りだったか。本気を出さぬ拙者に軽くいなされて誇りが傷ついたか』
イバラキの口調が強くなる。
断は何か言い返そうとしたがその隙はなかった。
『おぬし達はその後も我らに挑んできたな。何度も何度も。それは誇りを取り戻す為だったか』
唇を噛む断に向かってイバラキが続ける。
『だが、それでも拙者はおぬし達を殺さなかった。それはおぬし達が戦いに臨んで誇りを持たなかったからだ。おぬしが誇りと勘違いし、必死に抱え込んでおったのは』
イバラキが一瞬言葉を切った。
そして静かに
『驕りよ』
と吐き棄てた。
『驕り、だと…』
断がかろうじて声を振り絞る。
『そうだ。驕りだ。常に己が優位に立っているという過信、常に優位に立っていなければならんという妄信。敵を見下す事で相対的に己を持ち上げておるだけのくだらない驕り。おぬしはな、そんなものに頼り切っておったのだ。なればこそ戦いに負けた時、拙者に敵わぬと悟った時、その唯一の存在意義を失ったのだ』
『ち、違う、俺は』
イバラキは反論を許さない。
『おぬしはな、我らに完敗を喫してなお本気を見せなかった。死に物狂いにならなかった。これは俺の実力じゃない。今度こそ軽くいなして勝ってやるぜ。おぬしの戦いぶりからはそんな驕りがずっと抜けなかった。だから我らはおぬし達をいたぶり続ける事にしたのだ。思い上がった心を真っ二つにへし折る為にな』
断が、くっ、と小さく息を漏らした。
自分自身も気付かなかった本心を言い当てられて動けなくなったのだろう。
強く握られた拳が小さく震えていた。
その断を、イバラキはからかうような目で見た。
『拙者は真似をしてみたのよ。本気で打ちかかってくるおぬし達を本気を出さずにいたぶって追い詰めていく。おぬし達のやり方そのままであろう。やってみるまではさぞや楽しいのであろうと期待もしたのだがな』
イバラキは断に近付いて顔を覗き込んだ。
『残念ながら何も楽しくはなかった。本気を出さぬ戦いなど退屈で退屈で。よくもまぁこんな事に誇りを持てるものだと』
にやりと笑う。
『おぬしが羨ましかったわ』
断は力を失って、がくりと膝を着いた。
2015-05-30(Sat)
断がイバラキの腕を掴んだ。
それをイバラキはすかさず振りほどく。
何度か攻防を応酬しながら
『俺は雑念があるぐらいが気持ち良く戦えるんだよ』
と断が軽口を叩いた。
イバラキが
『そのようだな』
と答える。
二人はお互い後方に跳び距離を取った。
その間はいかにも小休止といった風情で、命の取り合いに相応しい雰囲気には思えなかった。
『断、相変わらず飄々と振る舞っておるが、おぬしの技、以前よりはるかに冴えておる』
イバラキが刀を下ろして断を称えた。
『はっ、まさかあんたに褒められるなんてな』
断が拗ねたような笑みを浮かべる。
『だったらもっと本気を出してくれてもいいんじゃないのかい、イバラキさんよ』
そう言われてイバラキは愉快そうな顔をした。
『まぁあんたが本気出してりゃ俺の首なんざ一瞬で飛んでただろうけどな。いや、あんたがそのつもりならとっくの昔にそう出来てるか』
断が地面を蹴った。
二人の距離が一瞬で詰まる。
断が左右の掌撃が繰り出される。
それは人間の目では捉えられぬような高速の動きであったが、イバラキはそれを右手一本で軽々と捌いた。
『なんで俺と封をすぐに殺さなかった?』
口調は相変わらず軽い。
だが、声に苛立ちが込められているように感じる。
『じわじわと苦しめたかったってか?そりゃ俺達はおまえの人生を狂わせた張本人だもんな。殺されたって仕方ねぇ。でもな』
淡々と、飄々とではあるが、それは断が今まで見せた事のない感情の発露だった。
『本気も出さねぇおまえにじわじわ嬲られるのは本気で最悪だったぜ』
そう言われて、しばらく受けに回っていたイバラキが、刀を逆手に握ったままの左拳を断の腹部に叩き込んだ。
『ぐふっ!』
断が胃液を吐きながら吹っ飛んだ。
『なるほど、おぬしの誇りに傷がついたというわけか』
イバラキは追撃しようとはしなかった。
『本気の敵を軽くあしらって命を奪ってきた、それがおぬしの誇りとなっていたのだな。己の力に対する絶対の自信。その自信こそを存在意義として生きてきたのだな』
地面にうずくまっている断がどうにか顔を上げて答える。
『あぁ、そうさ。故郷でもこの国でも、俺達は殺しの腕だけで生き延びてきたんだ。それが敵を本気にさせる事も出来ねぇでいたぶられちまうなんてよ。おまえに余命宣告された時の悔しさは今でも忘れてねぇぜ』
成すすべなく身動きを封じられ、三年のちに絶命するという経絡を突かれたあの日、断の心は折れた。
あの日から血讐の命令にも一角衆の任務にも身が入らなくなった。
何を成したところで数年後には死ぬと分かっているのだからそれも仕方ない。
こんな思いで生きながらえるくらいなら。
『なんで、すぐに殺さなかった』
断の唇は震えながらその問いを繰り返した。
2015-05-16(Sat)
イバラキと断は山頂に向かって走っていた。
いや、走るなどという速度ではない。
あたかも燕が飛ぶがごとく、あるいはそれを凌ぐ速さで移動しているのだ。
二つの影は離れては近付き、接近してはまた距離を取った。
その動きすら常人には目視も出来ぬ一瞬なのであるが、その中では実に濃厚な攻防が繰り広げられていた。
イバラキの刀が鋭く断を狙った。
断はそれを必死にかわしながらイバラキの懐に入ろうと試みた。
断の技は敵に触れ、血の流れ・気の流れを断つというものである。
気血が断たれれば呼吸すらままならなくなり物理的な活動も不可能になる。
断は祖国で叩き込まれたこの殺人技術で敵を倒し、これまで生き抜いてきたのだ。
だが、無敗を誇っていた断はこの国に来て初めての敗北を喫した。
その相手が一角衆幹部、血讐である。
実際に手を合わせたわけではない。
従って実際に負けたわけではない。
だが、ふらりと現れた血讐が目の前に立った時、
(こいつとは戦わない方がいい)
と本能的に思ったのだ。
それは戦う者にとって、まぎれもない敗北なのである。
そして血讐から
『我らの仲間になれ』
と言われた時
(こいつからは逃げられない)
と確信を持ってしまった。
それ故に封と共に一角衆に組する事になったのだ。
一角衆の一員となり数え切れないほどの敵と戦ってきたが、やはり断をおびやかす者は現れなかった。
血讐を除いては無敗を貫く事が出来た。
かつて荊木流にこの者ありと言われ『くちなわ』と呼ばれた忍びに対しても恐れを感じる事はなかった。
だが、
再びくちなわと出会った時、
『幻龍イバラキ』と名を変えたその忍びと再会した時、
断の自信は粉々に砕け散った。
これまでの人生で味わった事のない徹底的な敗北。
屈辱的な惨敗。
あまつさえイバラキの技は断の寿命を残り数年にまで縮めてしまったのだ。
自分はもうすぐ死ぬ。
だとしたらその前に、
せめてこの男を。
断は戦いながらそんな思いをよぎらせている自分に気が付いた。
その間も攻撃の手を休める事はなかったしイバラキの攻撃もどうにかかわしていたのだが、イバラキはふふと笑い、まるで全てを見抜いているかのように
『雑念を抱いておると命に関わるぞ』
と警告を発した。
2015-05-15(Fri)
かすかに、
断の爪先がかすかに動いた気がした。
紅蓮丸がそう思った時、イバラキと断の姿は視界から消えていた。
足元の落ち葉をわずかにも舞わせる事なく、
土埃すら上げる事もなく、
二人は戦闘を開始したのだ。
紅蓮丸の隣では炎丸がきょろきょろと首を動かしている。
『兄者ぁ、イバラキ様消えちまったぜぇ~』
動揺している弟の姿がおかしくて紅蓮丸はふっと笑った。
『我々の目では本気のイバラキ様を捉える事は出来ませんよ』
炎丸が感心したように大袈裟に頷く。
紅蓮丸は周囲の忍び達に目をやった。
全員が身じろぎもせずに立っている。
どうやら幻龍の配下といえどイバラキの動きを見切る事は出来なかったらしい。
しかし呆然と立ち尽くしているのかといえばそうでもなく、頭領の勝利を信じて待機しているといった体だ。
(イバラキ様は断って奴に何度も圧勝してるみたいだから心配はいらないんでしょうけど…)
紅蓮丸は幻龍組の統率力に改めて畏怖した。
それにしても…
『炎丸、私達は命拾いをしたようですね』
『えっ?』
『イバラキ様だけじゃなく、あの断という男の動きも全く見えませんでしたね、私達には』
『あ?あぁ』
『どうやら幻龍の者達にも見えなかったようですよ。手練れ揃いの忍び達が全員見失ってしまったようです』
『えっ…という事は』
『断の腕前はここにいる連中をはるかに凌ぐという事になりますね。もし私達がそんな奴に向かって行ってたとしたら…』
そこまで言われて炎丸が震えだした。
『あわわわわ…兄者ぁ…』
紅蓮丸も小刻みに震えている。
『勢いでかかっていかなくて良かったわぁ~!これからはもっと慎重にいきましょ!ね!ね!』