2016-08-30(Tue)
夜が明けた。
とはいってもまだまだ時刻は早い。
季節はもう夏なのである。
どこかで気の早い蝉が鳴き始めた。
日中の暑さを予感させる良い天気だ。
いつもならまだ人の気配などない時間だがこの日は違っていた。
夜明けと共に人々が家から出てくるのが見えたのだ。
『動きだしたっシュね』
心太郎の声が囁いた。
『やっぱり今日だったわね』
さやかが答える。
二人の声は古い火の見櫓の上から聞こえていた。
この町では数年前に番屋が移転し使われていた櫓も破棄されてそのままになっていたので、さやかと心太郎は早朝や深夜の監視用に利用していたのである。
戸口を出た人々は近所の者達と挨拶を交わしながら同じ方向に歩いていく。
普段通りの笑顔で、眠そうな顔で、気取りも気負いもなく進んでいく。
『特別おかしな雰囲気ではないっシュね』
『もうこの町では日常の一部になってるんだわ、庚申教が』
さやかの言う通りであった。
謎の新興宗教・庚申教はすでにこの町を含む広い範囲に根付いていた。
そしてこの町では月に一度、町の外れで集会が開かれているという。
今日はその日なのだ。
集会はどうやら早朝から出発し、森を抜けて山を登り、そして森に戻った所で行われるという。
半日かけてのけっこうな重労働である。
老人や子供達にとっては大変だろうが、それでも皆当たり前のように参加している。
それだけ庚申教が浸透しているのだろう。
実際のところ現世利益を説く庚申の教義は人々の心を捉えていた。
しかしながらその庚申教は音駒を死に追いやりさやかを追い詰めようとした仇であるという。
さやかは真実を探る為、今回の集会に潜入する事にしたのだ。
ほどなくして集会に参加する人々の姿が町外れに向かって行った。
ざっと数えただけでも住人の三、四割ぐらいは森に向かっているようである。
さやかと心太郎はかなりの距離を取って後を追った。
最初は参加者に化けて、とも考えたのだがこの状況では余所者はバレやすい。
それに何かあった場合に一般人を巻き込む危険性もある。
それ故に限界まで距離を開いての尾行となったのだ。
2016-03-25(Fri)
みずち。
その名は血讐も知っていた。
十二組内において龍に次いで、いや、龍と比類する実力を持つと言われている蛇組の頭領。
本来は荊木流という忍術を修めた上忍であるらしい。
かなりの手練れである事はこうして向かい合っているだけでも分かる。
(敵の出方を見るべきか)
血讐は一瞬そう思ったが考え直し、先手を打って攻撃を仕掛ける事にした。
このみずちという敵、時間をかけたところで何も読めぬ。
何も読ませぬだけの力量を持っていると瞬時に判断したからだ。
ならば睨み合いなど無駄。逆にこちらが不利になる事も考えられる。
血讐ほどの男がここまで警戒する事はめったになかった。
そして血讐は警戒の根を絶つべく刀を抜いた。
抜刀、そう書けば簡単だが、血讐の動きはそんな生易しいものではなかった。
雷光、いや、閃光とでも例えるべきか。
光が走ったという言葉でさえも及ばない速度で鞘を飛び出した白刃は眼前のみずちの胴体の中心を振り抜かれていた。
血讐の本気の抜刀を見たものはいない。
目視出来ぬ速さだという事もあるが、ほとんどの者はその瞬間に命を絶たれているからだ。
なので血讐は(みずちを斬った)と思った。
これまであまたの達人と呼ばれる敵にも遅れを取った事はないという自信がそう思わせたのかもしれなかった。
だが、
『ほう、これは素晴らしい。見事な腕前』
みずちは倒れてはいなかった。
倒れるどころか感嘆の言葉を述べていた。
『なっ…!?』
血讐は事態が把握出来ず声にならぬ声をあげ、戸惑いを振り切るようにもう一度刀を振った。
だがそれでもみずちを斬る事は出来なかった。
なぜ斬れぬのか分からぬ、どうかわされたのか分からぬ、
分かるのはただ『斬れなかった』という現実のみである。
『これほどの剣の腕、さては一角衆の武術師範、血讐とはおぬしの事か』
見抜かれている。
一角衆の内情など知る敵はいないと思っていた。
どうやって調べたのか見当がつかぬ。
十二組の情報収集能力を甘く見ていたのか。
『しかしこのような作戦とも呼べぬ作戦で乗り込んでくるなど知略謀略を得意とする血讐殿とは思えんな。さては頭領殿に無理を言われましたかな?一角衆頭領といえば理を好まず武力を以って戦いに臨まれる方と聞く』
血讐は表情にこそ出さなかったが酷く驚愕していた。
敵は自分達の事をどこまで知っているのか。
(この男は脅威だ)
血讐は油断なく構え直した。
そしてじりじりと距離を詰める。
次は絶対によけられぬ距離で斬る。
対してみずちは構えるでもなくゆらりと立っている。
だがそれが逆に怖い。
その姿のどこにも油断が見えなかったからだ。
血讐がいつもよりも深い攻撃圏に入った。
さらに踏み込んでみずちの胴に斬り込む。
これならよけられない!!
血讐は心の中で絶叫した。
それは確信ではなく願望だった。
しかし、その願望はすぐに絶望に変わった。
目の前にいたはずのみずちの姿は瞬間的に消えていた。
そして背後から
『惜しかったな』
という声が聞こえた。
血讐は振り返ろうとした。
だが動けなかった。
刀を振ろうとした。
だが動けなかった。
どうなっているのか分からないが、背後からみずちが蛇のように絡みついて動きを封じていたのである。
全身の骨がみしみしと軋む。
『ぐあぁっ』
思わず悲鳴を上げた血讐の眼前にみずちの刀がゆっくりと向かってくる。
血讐の全身を封じながらも刀を持ったみずちの右腕は自由に動くのだ。
『そういえば』
血讐の耳元でみずちの声がする。
振り返れぬから表情は分からぬが、かすかに楽しんでいるような声である。
『おぬし達の頭領は名を赤岩というらしいな』
蛇が鎌首をもたげるようにみずちの刀が迫ってくる。
『ならばおぬしも。同じせきがんにしてやろう』
切っ先が血讐の右目の前でぴたりと止まった。
『なんだよ!ダジャレかよ!!くだらねぇ!!』
断が思わず笑った。
『つまらぬ話だと再三言ったであろう』
イバラキも笑った。
『そんな理由で片目つぶされたのかよ血讐のジジイ。そりゃ恥ずかしくて俺らに話さないわけだ。しかしあんたの師匠もお茶目だな、おい』
イバラキの笑いが自嘲を帯びる。
『その時に血讐を殺しておけば、とも思うが…おそらく命を奪わぬよう十二組内での取り決めがあったのだろう。結局血讐はその時の恨みを晴らさんが為、数年後に幼き間者を荊木に送り込み、数十年をかけてみずち様を亡き者にした。それにまんまと踊らされて蛇組を壊滅させてしまったのは拙者だがな』
『それに加担してたのが俺とおふうってわけだ。…悪かったとは言わねぇよ。俺らは一角で、俺らには俺らの任務があったんだからな。でもよ、ジジイの意趣返しに利用されてたんだと思ったら、今更だけど馬鹿らしくて笑っちゃうよな』
笑っちゃうと言いながら断はため息をついた。
『でもまぁこれで心置きなく死ねるってもんだ。あの日あんたに余命3年と言われてから、もうちょうどいい頃合いだろう』
断は座り込んで天を仰いだ。
『色々あったが差し引きで楽しい人生だったかもしれねぇなぁ』
『もし』
イバラキが口を開く。
『もし生きながらえられたなら何かやりたい事はなかったのか』
『もし、なんて意味ないだろ。死ぬんだから。まぁ行きたい所はあったかなぁ。気になる事もあったしよ』
『ならば、それを成せ』
『はぁ??だって俺』
イバラキは長い針を見せて断の言葉をさえぎった。
それはあの日、断に余命3年を宣告した針だった。
『あれは』
イバラキが指先で針をぽきっとへし折った。
『嘘だ』
しばらくの沈黙の後
『え?えええーっ!?』
と断が腰を抜かした。
『だって、お、おまえ、う、嘘!?じゃあ、じゃあ俺のこの3年間は…』
最後はもう言葉にもならない。
『これが拙者の復讐よ。ひとおもいに殺されるよりよほど効いたであろう。腹が立つか?』
『腹が立ったりほっとしたり情けなかったり…しかしまぁこれぐらいの報いを受けるような生き方をしてるんだよな俺は。仕方ねぇよ。しっかしあんたも師匠に負けず劣らずお茶目だな、おい』
『物分りが良いな、つまらぬ。で、さっきの話だが』
『さっきの話?あぁ、行きたい所があるって話か。じゃあよ、行ってくるわ。せっかく拾った命だからな』
そこへ、不意に頭上から声がした。
『せっかく拾った命、捨てる事になるかもよ』
断が見上げるといつの間にか樹上に男が立っていた。
『おまえ、邪衆院天空』
そう言われて邪衆院はふわりと地面に降りた。
『死ぬかもしれないけど、それでも行くんだ?』
『なんだよ、俺がどこに行くか知ってんのかよ』
『もちろん。一角衆だろ?』
『…なんでそれを』
『分かるって』
『でも別に一角衆に戻るわけじゃねぇぞ』
『分かってるって。だから、俺も一緒に行くよ』
『え…?』
『一角衆には封の娘がいるんだろ?』
『…』
『出来れば救い出して、封の所に連れていってやりたいって、そう思ってるんだろ?』
断は絶句した。
『…お見通しかよ、かなわねぇなぁ』
『行くか?俺と』
『そだな、そっちの方が心強ぇか。よろしく頼むぜ、邪衆院天空』
『心得た』
邪衆院はうなずくと、イバラキと向かい合った。
『イバラキ様、勝手ながらここでお暇をいただきたく存じます。これまでのご恩、忘れません』
淡々とではあったが、これは別れの言葉であった。
一角衆に乗り込めば二度と戻れぬという覚悟を決めているのかもしれなかった。
突然の決別であったが、イバラキはただうなずいて、こちらも淡々と
『これまでご苦労』
と労いの言葉をかけた。
もともと邪衆院は戦いによって己を高める流浪の男なのだ。
いつか別れが来る事をイバラキは分かっていたのだろう。
邪衆院は短く
『では』
と告げると、断と共に姿を消した。
後には幻龍イバラキがただ一人立ち尽くしていた。
2016-02-13(Sat)
山中を進む血讐は、虚無とも思える静寂の中でかすかな空気の乱れを感じた。
おそらく分散した各隊が十二組に襲撃されたのだろう。
血讐のその読みは当たっていた。
十二に分かれて進んでいた一角の隊は、血讐達を除き全て壊滅させられていた。
干支の名を冠する十二組はそれぞれの動物の特色を活かした戦術を持つという。
(せめて各隊にひとりでも生き残りがいればその一端が知れるものを)
血讐はそうも思ったが、それに関しては最初から期待してはいなかった。
今回は頭領・赤岩の作戦を実行して失敗して帰るのが目的なのだ。
裏の世界に名を轟かせた十二組の全貌を探るのならばもっと綿密な計画が必要だ。
五年、十年、いや、場合によってはそれ以上の時間をかけてじっくりと攻めていかねば。
血讐は己ならどんな手段を講じるかを考えた。
警戒されないという点では赤子か幼子を間者として送り込むのが手っ取り早いが、赤子では術を仕込むのが難しい。
やはり子供、それも戦闘力を持たない女か…
血讐の思考はそこで瞬間的に途切れた。
鋭く研ぎ澄まされた神経がかすかな異常に反応したのだ。
血讐の刀が足元に突き立てられていた。
敵だ。
敵は土中に潜み、ずっと侵入者を待ち伏せていたのだ。
血讐の周囲では反応の遅かった手下達が次々と血しぶきを上げていた。
地面から突き出された刃が侵入者の足の腱を切り裂いた。
体勢を崩したところで今度は腕の腱を断ち斬られた。
地中から忍び達が飛び出した時、そこに立っているのは血讐ただ一人だった。
『我々が今夜来る事までは分からなかったはず。という事は常に地中に潜んで哨務に当たっておるのか。よもや土中にて暮らしておるわけではなかろう』
血讐が軽口を叩きながら刀を構えた。
口調とは裏腹に、刃にはぞっとするような冷たい殺意があった。
取り囲んだ忍び達は気圧されて構えたままじりじりと動いた。
そこへ、
『いや、地中にて暮らしておるかもしれんぞ』
と声がして、
粗末な作務衣を来た男が現れた。
『皆下がるが良い。その者の腕は大したものだ』
男がそう言うと忍び達は一斉に跳び退いて距離を取った。
血讐は男と向かい合いその顔を見た。
口元と顎に短い髭をたくわえている。
表情は柔らかいがその目から感情を読み取る事は出来ない。
髪は結われているが髷というわけでもなく、おそらく邪魔だから結っているといった体だろう。
年の頃は、血讐と変わらぬぐらいだろうか。
推し量っても強さや殺意が読み取れぬ。
これはかなり警戒すべき事であった。
『おぬし、十二組のいずれかの長か』
血讐は訊いた。
油断のならぬ敵だという気がしたからである。
男は訊かれると笑みを浮かべた。
『いかにも』
そしてすらりと刀を抜いた。
『我が名はみずち。地中水中、暗く湿った場所に蠢く蛇の長よ』
2015-12-15(Tue)
音も無く敵地を進む一角の忍び達。
彼らは一様に『異様なまでの静けさ』を感じていた。
途中途中に罠らしきものはあった。
だがそれは『かつて罠として仕掛けられたが使われぬまま朽ちた』ような代物ばかりで、それが余計に静けさを感じさせたのだ。
夜深き山中ならばいざ知らず、ここは敵陣が散在する場所である。
名の知れた十二組の手練れ達が侵入者への警戒を怠っているとは思えぬ。
ならばこの静けさは何なのか。
静寂は人心を不安に陥れる。
血讐を除く一角の者達の心がざわりと動いていた。
それは微かな小波のような揺れであったが、忍びとしては致命的になりかねないものだった。
(十二組といっても上忍ばかりではない。数としては下忍や見習いの方が多いのだ。ならば見張りが疎かになる事もあるのではないか?)
(そもそも十二組の砦に夜襲をかける者などいるはずがないと高をくくって油断しておるのではないか?)
(いや、実は全て見透かされていてすでに囲まれているのかもしれぬ)
そんな配下の動揺を感じながら、血讐は今夜の大敗を確信した。
(やれやれ、腕は上がっても中身が伴わねば使い物にならんわい)
心中で毒づく。
(まぁその程度の連中を選んで率いてきたのだから仕方ないがな)
はなから捨石にするつもりで程度の知れた者達を選抜したのである。
(それにしても頭領に一言釘を刺しておいて良かった。今宵の失敗を拙者の責とされてはかなわん)
この任を受ける際、念のため赤岩に『一切の責任は持ちかねますゆえ』と告げておいたのだ。
このような力任せの無策ともいえる作戦を任されて失敗の責任を取らされるのではたまったものではない。
後は自分が生きて帰れればそれで良い。
血讐は一角衆の武術教練に相応しい腕の持ち主である。
たとえ十二組といえども互角に渡り合える者がどれだけいるか。
各組の頭領達といえども一対一ならどうにかなる、そういう自信があった。
血讐の思惑など露知らぬ一角の各隊は周囲を探りながら走っている。
と、
ある隊の先頭を走っていた忍びが突然ぴたりと止まった。
何の合図も無かったが後続達はぶつかる事もなく同時にぴたりと止まった。
音も無くふわりと身を伏せ頭上を見上げるのも同時だった。
忍び達の目に映ったのは見張り櫓、しかも木立の中に巧妙に隠されて組まれた見張り櫓だった。
一角の忍び達は身を伏せたまま気配を消した。
そして、気配が大気と同化するまで数刻もの間じっと待った。
まこと身を隠さねばならない場合、その場の空気になりきる事が要訣なのである。
そして、気配が大気に溶け込んでからようやく、隊列はじわじわと動き出した。
木の葉が舞うように、蛇が這うように、自然の理に沿って動く。
忍び達の動きは完璧だった。
櫓が組まれた樹に一人が近付いた。
蔦のようなものが垂れている。
これを縄梯子のように使って登るのだろう。
だが表面には掴んだり足をかけたりした跡はなかった。
樹皮には一面に苔が生していて、ここにもよじ登った跡は見受けられない。
念のため辺りの他の樹も調べてみたがどれも同じだった。
先頭の忍びは櫓の中も検める事にした。
振り返ると他の者達はすぐにその意を解し、櫓までの人梯子となった。
先頭の忍びは人梯達の肩や背を踏み台にして駆け上がり、一瞬で櫓に辿り着いた。
万が一の時の援護の為に、追って二人が上がってくる。
だが、櫓の中は、荒れていた。
床には落ち葉枯れ葉が積もり、その下には土埃が溜まっていた。
錆びた燭台や欠けた湯飲みなどが落ち葉の間から確認できる。
つまりここは長い間使用されていないという事だ。
三人は検分を済ませると地上に降りた。
十二組とやらはすでに警戒を怠っているのだ。
罠の残骸と朽ちた砦を見て忍び達はそう判断した。
敵はもう何年もの間こうして暮らしていたのだ。
『十二組の砦に侵入出来るわけがない』という思い込みを利用して安穏としていたのだ。
思えば十二組に戦いを挑む者など今ではほとんどいないのだから警備が手薄であっても頷ける。
忍び達は再び隊列を組み走り出した。
この様子なら調査など容易いだろう。
見張り櫓を過ぎてからはただ草むらばかりが広がっている。
おそらくこの向こうに砦があるはずだ。
先頭の忍びが遠くに屋敷の影を見つけた時、
その足が止まった。
先ほどと同じように後続も止まった。
が、さっきとは明らかに違う。
先頭の忍びは激痛を感じていた。
そして膝から下が温かくなるのを感じていた。
血だ。
生温かい血が流れているのだ。
だが何が起きたのかを確認する事は出来なかった。
すでに彼らは十二組のひとつ・猿組の忍者達に取り囲まれていたのだ。
実は草むらの中には所々、葉を模した刃が仕掛けられていた。
精巧に作られた凶器が不規則に仕掛けられていては見破る事は難しい。
ましてや夜の闇の中では。
加えてこの罠の眼目は、ちょうど屋敷が見え始めた辺りに仕掛けられている事だった。
意識が屋敷に向かえば足元への注意は疎かになる。
一角衆の忍び達は悟った。
罠がない事が罠だったのだと。
最初から罠に嵌まっていたのだと。
自分達は山中に入ってからのあまりの静寂に対し不安を感じていた。
そこで朽ち果てた見張り櫓を発見し安心してしまった。
緊張の後の弛緩はより大きくなる。
その瞬間を狙ってこの罠は仕掛けられていたのだ。
敵はずっとここで待ち構えていたのだ。
長い時間かけて、気配を空気に溶け込ませて。
動こうにも動けなかった。
動けば足元の無数の刃が皮膚を貫いた。
一角の部隊のひとつが全滅するのにそう時間はかからなかった。
2015-08-20(Thu)
『くだらぬ話だぞ』
イバラキは改めて前置きした。
イバラキがみずちに拾われるより二年ほど前、
一角衆が十二組の砦に攻め入った事があるのだという。
その時、指揮を執ったのが若き頃の血讐であった。
『若いといっても四十に近かったと思うがな』
三十年近く前なのである。
『攻め込んだのかい、あのじいさんが。考えられねぇな』
血讐はじわりじわりと敵を追い詰める作戦を得意とするのだ。
『一角衆の頭領・赤岩は力で押すばかりの粗野な性格だからな。おそらく十二組を攻めあぐねて業を煮やした赤岩が無理に命じたのであろう』
『ま、そうじゃなきゃあのじじいがそんな真似しないか』
十二組の砦はそれぞれの組が分散して居を構えており、よほどの軍勢でなければ全てを一気に攻める事はほぼ不可能である。
もしそれらを取り囲むだけの兵がいたとしても、人数が多ければすぐに気づかれ奇襲は失敗に終わる。
手練れの忍者軍団を相手に真っ向から戦いを挑むほど愚かな事はない。
『だが血讐はさしたる策もなく砦に忍び込んできた。はなから目的を果たすつもりも勝つつもりもなかったのであろう』
『死ぬつもりだったってぇのか?』
『いや、あえて負けるつもりだったのだ。そして頭領である赤岩に、力ではなく知略を用いねば勝てぬと進言するつもりだったのだろう。そうなれば血讐の参謀としての地位は格段に高くなるからな』
その夜は薄明かりの存在すら許さぬが如く厚い雲が空一面を覆っていたという。
風はなく獣の声すら聞こえぬそんな中、黒い隊列がまるで巨大な槍のように一直線に進んでいた。
血讐率いる百数十名の忍び達である。
赤岩が血讐に命じたのは十二組の壊滅。
だが現在分かっているのはこの付近の山々に十二の砦が点在している事、十二支の獣の名を冠する流派がそれぞれを守っている事、そしてどの組の忍び達もかなりの使い手だという事。
たったこれだけの情報で対等に戦えるわけがない。
なので血讐は部下にこう言った。
『我らの目的は調査である』
どこに各々の砦があるのか。見張りはどのように配置されているのか。罠の有無は。
本格的に戦いを起こす前にそれらを調査する事が最優先である。
ただし、敵と遭遇したならばこれを必ず倒す事。
血讐はそのように伝えたのだった。
暗闇に乗じて麓から進入した巨大な槍は、傾斜に差し掛かると一気に穂先を広げた。
穂先は十二本の短い槍となって広がりながら進んでいく。
十二に分かれた隊列が十二の砦を探すべく進んでいるのだ。
ひとつの隊列はおよそ十名。
この程度の人数では敵に気づかれればひとたまりもあるまい。
血讐はそう思っていた。
全滅の可能性すら考慮していた。
だが、たとえ全滅してもたかだか百数十名なら一角衆の基盤が揺らぐ事はない。
血讐ははなから捨石にするつもりで忍び達を率いてきたのである。