2012-07-13(Fri)
(おかしいわ)
天井裏から鳥飼藩主の様子を見ていたさやかは心の中で呟いた。
すでに陽は高くなり、町からは人々の行き交う音が聞こえている。
さやかと心太郎が城内に潜んですでに数時間が過ぎた。
鳥飼侯は夜明けからしばらくして目を覚ましていた。
だが、さやかが呟いたように、その様子は普通ではなかった。
周りに誰もいなければ黙って横になり、家臣達が来れば黙って座している。
とにかく言葉を忘れたかのように、ただの一言も喋らぬのだ。
そして何よりも、
鳥飼侯の目には生気が全くなかった。
どろりとした濁った目をしていたのだ。
床下から様子を窺っていた心太郎は、藩主は重い病なのではないかと思った。
意識の混濁や記憶の障害、そういった何かではないのかと。
もし病だとしたらそれはいつからだろう?
この様子では例の御触れを出す事も出来まい。
御触れどころか通常の職務さえこなせそうにない。
だとしたら、虚言を禁じる御触れを出した後にこの容態になってしまったのだろうか。
心太郎はそこで思考を止めた。
どれだけ考えてみても憶測推測の域を出る事はないのだ。
ならば余計な事を考えずに、ただ様子を見ていた方がいい。
藩主は一、二度厠に行ったぐらいで後は寝所から出る事はなかった。
よってさやか達もじっと暗がりに潜んだままであった。
身動きひとつする事もなく、一切の飲み食いもせず、埃だらけの板の上にただ無機物のように横たわる。
忍びにとってそれは全く苦ではない。
これぐらいは三、四日続けられなければ忍びとして役には立たないのだ。
さやかは決して気を散らす事なく、ぼんやりと音駒の笑顔を思い出していた。
そして、
(心太郎は何を考えてるだろう)
などと思っていた。
遠くで鴉が鳴いた。
外では陽が落ちはじめているのだ。
寝所に数人の家臣達が入ってきたのはその直後であった。
2012-07-04(Wed)
さやかと心太郎は呆気ないほど容易く鳥飼藩主の寝所に辿り着いた。
小さくとも一国の城であるゆえ、深夜明け方と言えども番をしている侍はいるし見回もいる。
女中達が目を覚ます時刻でもある。
だが、城の外にいた特殊な監視役の気配は一切感じられなかった。
たかだか女中や侍ごときをやり過ごす等、忍者にとって造作もない事。
さやか達は堂々と城内を歩いて藩主の寝所に潜入したのだ。
(よく寝てるっシュね)
心太郎が指を使って伝える。
確かに鳥飼藩主は穏やかな顔をして寝息を立てていた。
さやかは周囲をぐるりと見回す。
(特に何もなさそうね)
心太郎がうなずく。
怪しげな所はない。
城の外の警戒ぶりが嘘のようだ。
改めて藩主の寝顔を見る。
白くまばらな髪と刻まれた深い皺が、おそらく実年齢よりも上に見せている。
金丸公が慕う父違いの兄、
現在の金丸の礎を築いた切れ者、
突然変貌を遂げた男、
虚言を許さぬ触れを出した君主、
さやかは頭の中をまとめようとしたが、金丸公の悲しげな顔や、ゆりの悲痛な嗚咽が脳裏に浮かび、深く考えを巡らせる事が出来なかった。
とにかく、一日かけて藩主と城内の様子を探ろう。
全てはそこからだ。
さやかが顔を上げると、小さな明かり取りが青く染まっていた。
夜が明ける。
どこかで鳥が鳴いた。
その瞬間、二人の姿は消えていた。
藩主の動向を探る為、さやかは天井裏に、心太郎は床下に身を隠したのだ。
2012-06-27(Wed)
全く人の気配のない城下町の、影から陰へ慎重に足を運ばせるさやかと心太郎。
気配がないのは表向きの事であって、謎の監視役がそこらにいる事は間違いない。
さやかは暗闇に立ち止まって意識を集中する。
心太郎がその顔をじっと見る。
しばらくしてさやかが心太郎の手を握った。
喋る事が出来ない状況の時、山吹の忍びは指の動きで会話するのだ。
心太郎がさやかの指から伝わる情報を整理した所によると、どうやら見張りはある程度の距離をおいて、ほぼ均等に配置されているようだ。
おそらくは二丁(約200m)おきぐらいであろうという事である。
なぜそれが分かったかというと、どうやら大勢の見張り達の技量には差があるようで、所々に気配を消しきれない者が潜んでいるらしい。
さやかに言わせれば『三流』といったところだ。
言わずもがなではあるが、忍び同士の場合(今回の敵は忍びかどうか分からないが)、気配の応酬は極めて重要になる。
同程度の力量を持つ忍び同士が互いに気配を消せば、双方が相手の気配を読む事はかなり難しい。
まるで同じ音波が打ち消し合うが如く気配が溶解してしまうのだ。
腕の立つ忍び同士が鉢合わせ、という事があるのはそういった理由からだ。
そしてこれにはもう一つの危険が潜んでいる。
同調し溶解した気配を無理に探った場合の危険性である。
これはシンクロしていた気配を乱し、互いの気配を露呈させてしまう行為であり、つまりは
『相手の気配を探ればこちらの存在も知らしめる事になる』
という事になる。
さやかがいつも以上に慎重なのはそれを懸念してなのだ。
同調を出来るだけ乱さぬよう、ぎりぎりの所で気配を読む。
上手くいけば先手が有利な先方だが、かなりの技量がなければ実現不可能。
まさに山吹流忍術次期後継者の面目躍如だ。
さやか達は各所に潜む監視者達を二流と三流に区分し、出来るだけ二流から距離をおき、三流の隙を縫って進む事にした。
格下の三流相手なら、こちらの気配だけを消す事が出来るからだ。
心太郎はさやかの指を握って訊いた。
(なんで二流と三流だけで一流はいないっシュ?)
さやかはそれに答えず、心太郎の指をぎゅっと力任せに握り返して走り出した。
どうやら敵を一流と認めたくないという、さやからしい負けず嫌いだったようだ。
かくして作戦は功を奏し、空の漆黒が溶け始める頃、二人は城内へと入り込んだ。
2012-06-07(Thu)
さやかと心太郎は夜明け前の闇に紛れて鳥飼に戻った。
辺りに人の姿はない。
民家すら見当たらない寂しい場所だ。
目的の鳥飼城まではけっこう距離がある。
敢えて遠回りしてこの場所から藩内に入ったのは謎の監視集団を警戒しての事だ。
先日の感じだと城下町はかなり厳しく見張られている。
いかな山吹の手練れといえ、いきなりそこへ足を踏み入れるのは危険が大きい。
敵の警戒が薄い場所から、慎重に様子を窺いながら本丸に迫る。
危険と判断したら潜入は一旦中止しなくてはならない。
さやかは走りながら深く長く息を吐き気持ちを落ち着かせた。
雑草についた朝露が足袋を湿らせる。
風が冷たい。
もうすぐ本格的に寒くなるわね、とさやかは心の中で呟いた。
呟いて、何故か心の内側に針を打ち込まれたような痛みを感じる。
物理的な痛みではない。
(また来たわね)
さやかは憎々しげに毒づいた。
この痛みは十数年前からさやかに取り憑いている『虚無』の仕業であり、さやかはそれを理解していた。
虚無はさやかを無常の世界に引き込もうとする。
おまえが生きる世界には苦しみしかないのだ、と絶望の淵に誘う。
兄が殺されて以降のさやかにとって、死の誘惑は抗いがたい蠱惑的なものであった。
兄が死んだなら自分も死んでいるようなものだ。
兄のような素晴らしい人間が志半ばで殺されるような世界にどれほどの価値があろうか。
兄がいない世界に生きていても仕方ない。
ならばいっそ。
そんなさやかをぎりぎりの所で踏みとどまらせているのは宿敵、幻龍イバラキの存在であった。
兄のかたきを討つまでは死ぬわけにはいかぬ。
それまでの我慢だ。
奴を討ち、心置きなく現世に別れを告げよう。
そう思っていた。
だが今は、
何故か音駒の笑顔が心に引っ掛かっていた。
音駒は今日も病人達の為に歩いているのだろうか。
早く会いたい、と思いかけてさやかはかぶりを振った。
そんな事を考えている場合ではないのだ。
さやかと心太郎は闇の中、畔を走り抜けている。
ようやく人が暮らしている景色が見えてきた。
ここにも見張りの気配はないが、これから先は特に気を付けなければなるまい。
余計な思考に囚われては幽かな気配を読み損なうかもしれない。
なぜ音駒の事なんか思い出したのか。
きっと寒さのせいだわ。
さやかは心の中で言い訳をした。
身体が冷えると人は温もりを求める。
冷えた身体は心を冷やし、心もまた温もりを求める。
心が求める温もりとは人の温もりだ。
だから冬は人恋しくなる。
だから冬は寂しくなる。
『さやか殿』
心太郎の声でさやかは我に返った。
そして、結局は余計な思考から逃れられていなかった自分をこっそり恥じた。
さやかが立ち止まる。
心太郎も立ち止まる。
二人の眼前に、墨のような空と同化した鳥飼城が見えた。
もうすぐ城下に入る。
ますます用心せねば。
二人は顔を見合わせて小さくうなずき、城に向かって走り出した。
2012-05-03(Thu)
なるほど。
鳥飼の異様な雰囲気は、相手が自分を罠に嵌めようとしているのではないかという猜疑心と、それならばこちらが先に陥れてやれという敵意から生まれたものだったのか。
心太郎は合点がいったようで、人々の昏い目付きを思い出しながらうなずいた。
さやかは雷牙がくれた防寒用の虎皮を2枚出し、1枚を心太郎に渡した。
『あ、かたじけないっシュ』
心太郎がそれを羽織る。
さやかはもう1枚を地面に敷きその上に座った。
『ゆりさんは鳥飼の人ではないからそのお触れを知らなかったそうなんだけどね』
『もし知ってても、そのせいで自分が冷たくされてるとは思わないっシュよね』
さやかがうなずく。
『他藩から通ってるゆりさんには鳥飼のお触れはほとんど関わりがないんだけど、でも疑心暗鬼に囚われてる富男さんはゆりさんをも信じる事が出来なくなっていた。それで婚約を解消しようと思ったんだけど…』
『そうか、それをやっちゃうと富男さんは捕まっちゃうんシュね。結婚するって言ってゆりさんを騙した事になるから』
『法に触れる事になるわよね。だからゆりさんを遠ざけて遠ざけて、相手から婚約を解消させたのよ』
『酷い男っシュ!』
心太郎が妙に憤った。
『一度愛すると決めたならどんな事があっても相手を守るべきっシュ!それが男ってもんっシュ!』
だがさやかは白けた口調で
『子供がなに言ってんの。二十年早い』
と切り捨てた。
心太郎がしゅんとなる。
『問題は鳥飼藩主…金丸侯のお兄様が、何故突然そんなお触れを出したか、よね』
『やっぱり…あいつらが関わってるんシュかね』
心太郎が言ったあいつらとは、城の周辺を監視していた気配の事である。
『一応、金丸侯にも聞いてみたっシュ。鳥飼では城の警護に忍びを使ったりしてたのかって』
『どうだった?』
『おそらくそんな事はなかったって。忍びを使わなくても頼りになる家来達がいたし、なにより鳥飼は平和だったから、って言われてたっシュ』
『そっか…じゃあ鳥飼の変貌にあいつらが関わってるのは間違いなさそうね』
さやかが立ち上がる。
心太郎も立ち上がる。
『もうすぐ夜が明けるわ。行きましょう』
『はいっシュ』
金丸藩主の依頼を受け、二人は明るくなる前に城内に忍び込む事になっていたのだ。
もちろんこの事は山吹の三男である叔父、不問の許可を得ている。
不問の配下もこちらに向かっているらしいし、父、武双の元にも連絡が行っているはずだ。
『いい?心太郎。あくまで偵察だからね。派手な事は一切なしよ』
『分かってるっシュよ』
『いつもみたいなドジな失敗もしないでね』
『ぐっ…気をつけるっシュ…』
『じゃ、行くわよ』
空が明るくなる直前、二つの影は鳥飼の城に向かって走り出した。