2011-11-16(Wed)
陽が中天に差し掛かった。
風は冷たいが、光を直接浴びればじりじりと熱い。
だが、光を遮る樹々の中はじわじわとした冷たさに満ちていた。
その冷えた空気をゆっくりと断ちながらさやかが歩く。
昨夜とは違う野良着に身を包んでいる。
林の中は薄暗かった。
昼間とてろくに陽が差さぬ場所ではあるが、かすかな木漏れ日と霞んだ空気が生む乱反射で、それなりに視界が開けている。
そのある種幻想的な景色の中を、さやかは虚ろな眼差しで歩いていた。
『虚双眼』という術である。
視点を定めず視界全体を見る技術だ。
最初はぼんやりとしか見えないが、修行を積めば段々はっきりと見えるようになってくる。
一見簡単に思えるが、修行を積むまでは、すぐに景色の変化に意識を奪われ、視点を合わせてしまう。
ただぼんやりと見続けるのも大変なのだ。
昨夜のような暗闇とて、さやかには周りの様子がはっきり見えていた。
しかしやはり、昼と夜では見えるものが違う。
空気や匂い、動物の動き、
忍びの気配を探る為には、目に見えるもの、目に見えぬもの両方を捉えなければならない。
さやかは極力首を動かさぬよう、視線を動かさぬよう注意しながら神経を研ぎ澄ました。
2011-11-14(Mon)
林の近くの小さなお堂で夜明けを迎えたさやかは、これからどうするかを考えていた。
昨夜は天狗が出るような様子は感じられなかった。
音駒のような普通の青年さえ怯えながらも通っている。
(今回ばかりはただの噂かしら)
だとしたらこんな所で油を売らずに先を急いだ方がいい。
さやかには、『奥義の一巻』と渡された巻き物を山吹の分家に届ける任務が与えられているのだ。
しかし…
噂がある以上はどうしても気になる。
昨夜は“たまたま”何もなかっただけかもしれない。
さやかは決めた。
今日一日様子を見よう。
それで何もなければここを発とう。
自分を納得させるように小さく頷いて空を見る。
青い。
空の青は、矮小な人間に虚無を感じさせるほど深い。
そこに雲が流れる。
山吹の里がある方角に向かっているようだ。
さやかは仲間達に思いを馳せた。
十二組から蛇組…イバラキが抜けて、里は慌ただしくなった気がする。
いつ復讐に現れるか分からない幻龍イバラキへの対応を練ったり、
暗躍する一角衆の動向を探ったり、
下忍達などは修行もままならぬ様子である。
各組の頭領はさぞや大変だろう…
そこでさやかは少し照れた。
他人事のように言っているが、龍組の頭領、父・武双に大変な思いをさせているのは他ならぬ自分、
その事を失念していたからだ。
(任務の途中で天狗見物に立ち止まっている未熟者が次期後継者では、父上も気が気じゃないわね)
本当に申し訳ない気持ちになり、
(もう一日だけ。明日には必ず巻き物を届けるから。)
と心の中で言い訳してみる。
(とりあえず)
空から視線を下ろすと暗い林が目に入った。
(太陽が一番高くなったら林に入ってみよう。明るい状態でも見ておかなきゃ)
さやかはもう一度小さく頷き、ごろんと横になった。
2011-11-12(Sat)
音駒と名乗る青年は、おどおどしているせいか、ひ弱そうに見えた。
しかしその実、しっかりした芯を持っているようにも見えた。
『ご存じかもしれませんが、最近この林に天狗が出るという噂があるんです』
音駒は自分が来た方向を指差した。
『あちらへ行かれるのなら間もなく林を抜けられます。急いだ方がいいですよ』
『そんな所をおめぇはこの時分になんで通っとるんだ?』
『この先に済む病人を診に行くよう師匠から仰せつかったもので。
殊の外、治療に時間がかかってしまいました』
青年の言葉が途切れるのを待っていたかのように頭上で鳥が飛んだ。
その羽音にびくっとしながらも音駒は、
『急いで師匠の所に戻らねばなりませんので、私はここで。道行きご用心下さい』
と頭を下げた。
さやかは
『へぇ』
と会釈しながら通り過ぎる音駒を見た。
不思議な青年だ。
慇懃で物腰の柔らかい若者ならいくらでもいる。
しかし、あの年齢であれほどしっかりとした芯を感じさせる者はそういないだろう。
ただ―
遠ざかっていく背中にさやかは言った。
『この先、1ヶ所だけ枝が途切れて月の見える場所があるけんど、その辺りが何だか騒がしかっただで、ありゃもしかすると天狗が集まっとるのかもしれねぇなぁ』
すると予想通り、遠くから
『ひぃっ』
という悲鳴が聞こえた。
さやかは笑いをこらえながら、
『気をつけなされやぁ』
と、意地悪な声で別れの挨拶をした。
よせばいいのに、ついつい加虐的になってしまう。
悪い癖だと自分でも思う。
再び歩き出したさやかは、音駒の眼差しを思い出した。
年の割に達観した、落ち着いた瞳。
それに比してあの臆病な態度。
あの差はなんだろう。
きっと今頃は天狗の影に怯え、枝が揺れる度に腰を抜かしているに違いない。
(面白い)
さやかは内心、音駒をそう評した。
兄を亡くして十数年―
以来、さやかが他人に興味を示したのは今回が初めてであった。
さやか本人はその事に気付いていないのだが。
やがて、
さやかは林を抜けた。
景色の一面を月明りが照らしている。
さやかはその景色を、何故だか美しく感じていた。
2011-11-08(Tue)
『てん、てん、てん』
腰を抜かしたまま男は痙攣するように同じ言葉を繰り返した。
おそらくは突如目の前に現れた(ように見えた)人影に、
『天狗か!?』
と問い掛けたかったのであろう。
『てんてん、って、おめぇなに言うとる』
百姓姿のさやかが男の声で尋ねる。
天狗ではない事を証明して早く安心させてやらねば可哀想だ。
『おら、人にそんなに驚かれたのは生まれて初めてだ。おら、別になんの悪さもしてねぇぞ』
そこでようやく男は冷静になった。
『えっ…?天狗ではないのか?』
おずおずと燭台を差し出す。
小さな灯は不規則に揺れながら目の前の人影、すなわち野良着姿のさやかを照らした。
『あっ、あぁ~!こ、これは失礼しました!』
男は慌てて立ち上がろうとしたが、行李の重さに引き戻され再び尻餅をついた。
『別になんも失礼な事はないけんど』
さやかが無愛想にそう言うと、
『いやいや、驚かせてしまって』
と慌てて立ち上がろうとする。
しかし、やはりそれは叶わず、男は何度も腰を浮かせては尻をついた。
『驚いとるのはおめぇだけだ』
その言葉で我に返ったのか、男は燭台を地面に置き、ばつの悪そうな顔で行李を下ろして立ち上がった。
『驚かせてすみませんでした。
私は竹村音駒(ねこま)、医者の卵です』
知的な、
すっきりとした顔立ちだった。
その表情を見てさやかは、
『だから、驚いたのはおめぇだけだってば』
と答えた。
2011-11-07(Mon)
林の奥から歩いてきたのは、さやかの予想通り細身の若い男だった。
小さな燭台に灯を乗せ、行李のような物を背負っている。
二十歳前後だろうか、
遠目に見ても神経質そうな印象を受ける顔立ちだ。
考え事をしているのか、深刻な表情のまま、うつむいて歩いてくる。
まだ近付いて来るさやかに気付く気配はない。
二人の距離が縮まる。
だが、まだ男は顔を上げない。
さやかは少し戸惑った。
あの青年は、ぎりぎりまで自分に気付かないのではないか。
まさにぶつからんとするまで近付かねば気付かないのではないか。
こんな暗闇で…
しかも天狗が出ると言われている林の中で(男が天狗の噂を知っているかは分からないが)、
突然目の前に人影が現れたら…
その驚きは並々ならぬものがあるのではないか。
下手をすれば腰を抜かすほど、
いや、気の弱い者なら失神するほど驚愕するかもしれない。
周囲への注意を怠った本人の責任とはいえ、それは少し可哀想に思えた。
さやかは、
持っている枝で、わざと地面を大きく払った。
鞭のようにしなった枝が、落ち葉と湿った土をはじいた。
ひゅんっ!ばしっ!
その音にようやく顔を上げた男は、
前方で己の灯に照らされた人影に気付き、
『ひゃあああっ!』
と尻餅をついた。