2011-01-20(Thu)
心太郎に丸薬を飲ませるとさやかはすぐに山中の捜索を始めた。
昼の間に鬼が現れそうな場所を絞ろう。
そして今晩には噂の正体を解き明かして早く里に帰ろう。
心太郎の体調を慮ってそう考えていたのだ。
そうだ。
まずは祠を探してみよう。
そこは鬼が祠られたと言われている場所である。
何か手掛かりがあるかもしれない。
さやかは登る事も下る事もせず山を取り巻くように走った。
神であれ鬼であれ祠られていたという事は祠る者がいたという事である。
ならば人が通っていた痕跡があるはずだ。
それが祠へ通じる道となるだろう。
もし祠に行き着かなかったとしても、人が動いた痕跡は重要な手掛かりになる。
さやかは岩が途切れている場所や、少しでも平らに拓かれたような場所を見つけては重点的に調べた。
前日は到着した時間が遅かった為に大まかにしか見ていなかったが、じっくり調べてみると新しい発見がある。
一番に気になったのは、意外に植物が自生していた事であった。
樹木は少ないが小さな草花はあちこちに姿を見せており、それが人の手で採取された形跡があった。
薬草の類だろうか。
それなりの知識があるさやかにも分からない植物だ。
おそらくこの岩盤と潮風が生み出したこの地域固有の薬草なのだろう。
だとしたら薬草を摘んだのはこの土地の者か。
薬草には葉を使う物、茎を使う物、根を使う物、花弁を使う物があるのだが、足下の植物からは必要な部分だけが採取されているようだ。
先端の花だけが切られている物、
葉が全て摘まれている物、
茎が必要な物は根だけを残して、
根が必要な物は文字通り『根こそぎ』採取されたのだろう。
人の入らぬ荒れ山かと思っていたが、かなり知識がある者が薬草を採りに来ているのだ。
地元の医者だろうか。
ならばその者が鬼の正体?
いや、鬼が現われるのは夜更けである。
薬草を摘みに来た医者が深夜に山歩きをする必要はない。
しかしこの山に人が分け入っている事は分かった。
とりあえず一旦心太郎の所に戻ろう。
『あの子を一人で残しておくのはやっぱり不安だわ』
そう思い、走り出そうとして足を止めた。
『薬草なら摘んでいこうかしら』
心太郎の回復に役立つかもしれない。
しかしすぐに思い直して来た道を走り始めた。
薬草の必要な部分は全て摘まれていたし、もし残っていたとしても何に効果があるのかさやかには分からないからだ。
鎮痛、解熱の丸薬はまだわずかに残っているからどうにか保つだろう。
2011-01-19(Wed)
夜が明けると心太郎の体調はいくぶんか良くなっていた。
とは言え、まだ明らかに熱がある。
それでも心太郎は元気なふりをした。
『さやか殿のおかげで完全に復活したっシュよ!さぁ!鬼退治再開っシュ!!』
火照った顔の心太郎はどう見ても空元気だ。
『無理しないでいいわ。今日は一日休みましょ』
さやかがため息まじりにそう言うと心太郎はむきになった。
『無理なんてしてないっシュ!熱も下がったし、おいら全然元気っシュ!』
さやかはいきなり自分の額を心太郎の額にくっつけた。
心太郎は一瞬うろたえた。
さやかの額がひやりと心地いい。
その感覚が自分の発する熱の高さを再確認させる。
額をつけたまま、焦点も合わないぐらいの至近距離でさやかが詰問した。
『熱が下がったですって?どこが?』
『いや、あの…それは…』
心太郎はしどろもどろに言葉に詰まる。
さやかは心太郎から離れると、くるっと回って反対を向き、
『無理してまた倒れられたら困るのよ。もうあんた担いで歩くのは御免なの』
心太郎はうなだれた。
落ち込んでいる心太郎を、さやかは見飽きるほど見ている。
この6年間、さやかは事ある毎に心太郎をけなし、その度にうなだれた姿を見てきた。
これまで、それが心太郎の性分なのだと思っていた。
しかし今日は何故か、それは違うという気がする。
彼が忍びではなかったら。
修行も戦いもない環境で、他の子供達と野山で遊び回っていたら、もっと元気にのびのびしていたのではないか。
いや、例え忍びだったとしても、教育するのが自分でなかったなら。
兄のような素晴らしい忍びの下でなら、彼はまた違う一面を見せていたのではないか。
さやかは急に申し訳ないような気持ちになった。
しかし、口から出て来るのは相変わらず
『いじけないで。めんどくさいから』
という冷たい言葉だった。
『だから今日は一日おとなしくしてなさい。別に急ぎの調査じゃないんだから一日ぐらい延びたって構わないでしょ』
『でも…これ以上さやか殿に迷惑かけたくないっシュ…』
『あぁもう!…じゃあこうしましょ!あんたは日が暮れるまで身体を休める。夜になったら一緒に鬼を探す。どう?』
『う~ん…それなら…』
心太郎は渋々という顔をした。
まるで選択権を握っているようなその態度にさやかは少しいらっとしたが、受け流して続ける。
『その代わり、夜までは私が独りで動くわよ。いいわね?』
『えぇっ!?そんなの危ないっシュ!さやか殿に何かあったら…』
『う~る~さ~い~』
さやかはぐいっと顔を寄せて心太郎の言葉を遮った。
『何でもあんたの言う通りにはならないの。こうなったのは熱を出したあんたのせいなんだからね!』
『う…それを言われると反論出来ないっシュ…』
『心配なんかしてくれなくても大丈夫。…多分、鬼は夜まで出ないと思うわ。それに、そんなに遠くまでは行かないから。時々あんたの様子を見に戻らなくちゃいけないしね』
さやかはそう言って背中を向けた。
『さやか殿…』
『なに?』
不安げな問い掛けにも答えはそっけない。
『さやか殿…おいらの事…怒ってるっシュか…?』
心太郎がもじもじと訊くと、間髪を入れずさやかが大声を出した。
『怒ってるわよ!めちゃめちゃ怒ってるに決まってるでしょ!あんたが足を引っ張ってくれたお陰で私の予定は狂いっぱなしよ!本当ならとっくに鬼の正体を暴いて里に帰ってるはずだったのよ!もう!馬鹿忍者!駄目忍者!三流忍者!!』
罵声を一気にまくし立てると、深く呼吸した。
そして涙目の心太郎の顔を見て、落ち着いた声で、ゆっくりと言った。
『だから、これ以上迷惑をかけたくなかったら、日が暮れるまではおとなしく休んでて。…お願いだから…』
心太郎は、さやかが本気で心配している事を知って、こくんとうなずいた。
2011-01-18(Tue)
さやかと心太郎は山中を歩いてみたが、特に怪しいものを見つける事が出来ないまま日暮れを迎えた。
鬼が噂通り夜更けにしか出ないのならば、日が暮れたこれからの時間が佳境とも言える。
しかしこの日の二人は休息を余儀なくされた。
長旅の疲れからか心太郎が熱を出して寝込んでしまったのだ。
『もうっ!心太郎の馬鹿!役立たず!これぐらいで熱出すなんて修行が足りない証拠よ!』
『さやか殿…ごめんっシュ…本当にごめんっシュ…』
心太郎は苦しそうにぐったりしている。
『ごめんじゃないわよ!…同じ山吹流の忍者として情けないわ…』
とにかくどこかで休ませなければ。
さやかは山を登る途中に、岩肌がえぐれて小さな洞窟のようになっている所を見つけていた。
『ここならもし雨が降ってもしのげそうね』
そう考えて、その洞窟を捜索の拠点にしようと考えていたのだ。
さやかは心太郎を背負って歩いた。
『なんで私があんたを背負わなきゃいけないのよ…』
『さやか殿…ごめんっシュ…こんなんじゃ、またさやか殿に嫌われてしまうっシュね…』
さやかの背中で熱に浮かされた心太郎がつぶやく。
『心配しないで。これ以上嫌いになりようがないわ。今でも大っ嫌いなんだから』
悪態を突いてみるが返事はなく、ただ荒い呼吸が聞こえてくる。
よほどの熱が出ているのだろう。
さやかは背中に伝わる体温でそれを感じていた。
必要ないと思ったが丸薬を持ってきていて良かった。
普通の山なら薬草もあるだろうが、岩ばかりの高陵山ではそれは望めない。
『…寒いっシュ…』
心太郎が震えた。
洞窟に着くとさやかはまず心太郎に丸薬を飲ませ、虎の毛皮を敷いてその上に寝かせた。
『雷牙のおかげで助かったわ…』
雷牙とは虎組の若き頭領で、たける亡き後さやかの兄のような存在である。
海に面した高陵山で潮風が障るといけないからと虎の毛皮を二枚持たせてくれたのである。
汗だくで震えている心太郎に、さやかはもう一枚の毛皮をかけた。
『里に帰ったら雷牙に御礼すんのよ!』
やはり反応はない。
それから心太郎は眠ったりうなされて目を覚ましたりを何度か繰り返した。
その度にさやかが水を飲ませてくれたり濡れた手拭いを額にあてたりしてくれていた。
何度目かに目を覚ました時、心太郎は山中が闇の静寂に包まれているのを感じた。
かなり夜も更けたらしい。
さやかは心太郎が目を開いた事に気付くと、顔を近付けていくぶん柔らかい口調でささやいた。
『心太郎、私ちょっとこの辺り調べてくる。この時間なら鬼が出てくるかもしれないしね』
立ち上がろうとするさやかの手を心太郎が掴んだ。
『な、なによ』
『…駄目っシュ…鬼が出てさやか殿に万一の事があったら…おいら頭領に顔向け出来ないっシュ…』
苦しそうにそう言うと心太郎は目を閉じた。
『はぁ!?今のこの状況の方がよっぽど顔向け出来ないんじゃないの!?』
『…おいら…命に換えてもさやか殿を守るって…頭領に約束したっシュ…』
目を閉じたまま独り言のようにつぶやく心太郎にさやかは本気で呆れた。
『あんたねぇ…私より弱っちいあんたが、どうやって私を守るって言うのよ』
さやかは自分を掴む手をほどこうとしたが、心太郎はそれを拒み離さなかった。
『心太郎…!』
心太郎は閉じていた目をわずかに開いて、紅潮したうつろな表情でさやかを見た。
『…さやか殿がいないと寂しいっシュ…』
さやかは心太郎のすがるような瞳をしばらく見返して、
『役立たずの三流忍者!』
と毒づいて腰をおろした。
それを見ると安心したように心太郎は眠りについた。
『私を守りたいのか守られたいのか分かんないじゃない…』
さやかはため息をついて、地面に横になった。
二人の手はしっかりと握られている。
さやかは岩肌の冷たさを感じながら、兄・たけるが添い寝してくれた時の事を思い出していた。
あの時、やはり自分も熱を出していなかったか。
繋がれた兄の手にどれだけ安心したか。
さやかの母は、さやかが生まれて間もなく失踪している。
当然記憶はない。
それを寂しいと思った事もあるが、自分には母代わりの兄が、そして厳しくも優しい父がいた。
しかし心太郎はわずか三歳で叔父の元から預けられてきたのだ。
父も母も遠くにあり、その中で6年も修行を続けているのだ。
心太郎にとって、かろうじて肉親と呼べるさやかは母代わりなのかもしれない。
少しだけ強く心太郎の手を握り返したさやかは、時折うなされる少年忍者に幼き自分を照らし合わせて、
『私は…たける兄ちゃんみたいになれるのかな…』
と、少し曇った表情をした。
2011-01-17(Mon)
『ねぇさやか殿』
出来の悪い弟子が早足で師匠を追いながら問いかける。
『なによ。喋んなくていいから早く進みなさいよ。日が暮れる前に山に入りたいんだから』
『本当に鬼なんかいるっシュかねぇ?』
『いるわけないでしょ。馬鹿ね』
『でも実際に見たって人があっちこっちにいたっシュよ?』
確かに二人は旅の途中で何度も鬼の目撃情報を聞いた。
細部は違えど大まかには
『暗闇から現われる』
『紅い眼に4本の角がある』
『生首と片腕だけが宙に浮いている』
といったものがほとんどであった。
『鬼がいないんならあの噂は何なんシュか?』
『知らないわよ!…何かを鬼と見間違えたんじゃないの?さ、早く行くわよ!』
『だって鬼は暗くならなきゃ出て来ないって…』
『だから鬼はいないんだってば!正体は分からないけど、そいつには必ず実体がある。昼間はどこかに隠れてるんだと思うわ』
『何の為に?』
『私が知るわけないでしょ!もう!鬱陶しいわね!行くわよ!』
さやかは周りに人がいない事を確認して走り出した。
風を切る音もさせず、一瞬でさやかの後ろ姿が小さくなる。
必死で追いかける心太郎だったが、当然ながら追いつく事は出来なかった。
高陵山を闇が包む。
先ほどまで西の空に残っていたわずかな青みは消え、今は無限を感じさせる漆黒に星が輝くばかりになっている。
元々高陵山は滅多に人の訪れぬ場所だ。
岩場ばかりで伐採する樹木も少なく、所々に生えた樹も潮風の影響で木材には向かない。
餌となる物もろくにないので狩りの獲物もいない。
山を越えても海に面した崖があるばかりなので登る者もいない。
高陵山は、入る事に何の利点もない山なのだ。
ただ、かつて『鬼』が棲んでいたという伝説だけが残されている。
高陵山の鬼は里の娘に惚れて、嫁にしようとした。
娘に助けを求められた山の神は鬼に条件を出した。
娘が欲しくば、三日間の内に『この山の樹』を使って娘の為に屋敷を建ててみよ。
三日後の夜明けまでに、御殿のような屋敷を完成させる事が出来れば娘を嫁に取らせる。
しかし出来なければ今後一切、里に下りる事まかりならん。
と。
先ほど説明したように、この山にはまともな樹木は少ない。
御殿を建てる程の材木を探し出すだけでもどれほど時間がかかるやもしれぬ。
ましてや三日で屋敷を完成させるなど到底無理な話であった。
山の神はわざと実現不可能な条件を叩き付けたのである。
しかし、鬼はそれを了承した。
山を駆け回り、使えそうな樹を見つけると怪力で引っこ抜いた。
走っては樹を抜き、また走っては次々と抜いた。
何と丸一日で必要な樹木を集めきったのである。
すぐさま鬼は枝を落とし皮を剥ぎ鉋をかけ始めた。
さすがの山の神も鬼の手際に驚いたらしい。
なんと雨を降らせて邪魔をしたのだそうだ。
ぬかるんで足場の悪い中で、ふやけて加工しにくい樹木を鬼は必死に削る。
なんと二日目にして木材の加工が終わったらしい。
鬼は屋敷を組み立て始めた。
みるみる形が出来ていく。
山の神は、人ならざる鬼の力を甘く見ていたのだ。
夜はまだ明けない。
しかし屋敷は完成寸前だ。
神は身体から光を発し、自らの使いの鶏にそれを当てた。
鶏は夜明けと間違えて、大きく鳴いた。
すかさず山の神は言った。
『夜は明けり。
しかれども約束の屋敷は未だ形を成さず。
娘は諦めて山へ帰るが良い』
鬼は己の力不足を嘆き、すごすごと山へ帰って二度と里に現われる事はなかった。
山の神に救われた娘とその家族は、完成間近になっていた屋敷を造り上げ、そこでしばらく幸せに暮らしたのだという。
鬼は失意の内に山中で命を落とした。
死の直前に神の謀略を知り、娘を呪って死んだそうだ。
娘の一家は次々と病に倒れ、家系は絶え、屋敷は崩れた。
そして高陵山に緑はなくなってしまったのである。
祟りを恐れた山の神は、これ以上被害を出さぬ為に、鬼を手厚く祠ったのだ。
2011-01-16(Sun)
山吹流頭領、武双の命により西国の高陵山へ『鬼退治』に向かった山吹さやかであったが、
※さやかは『鬼』の存在を信じてはいないが、『鬼退治』という言葉の響きは気に入ったようである。
1つ納得のいかない事があった。
心太郎の存在である。
なぜ武双がこの三流忍者をお供に選んだのか、さやかには理由が分からない。
助けにならないどころか足手まといである。
山吹砦を出て高陵山に辿り着くまで一週間を要したのも心太郎の足が遅いからだ。
おまけにすぐ
『お腹すいたっシュ』
だの
『眠くなってきたっシュ』
だの言い出す始末で、事あるごとにさやかは苛々していた。
自分が10歳の頃とは…
いや、
5歳6歳の頃とも比べ物にならない。
『あんたには忍びの才能ないんじゃないの~』
さやかは心太郎によくこんな事を言った。
しかし、実は心太郎を忍者として育てたのは他ならぬさやか本人なのである。
心太郎は、山吹流頭領・武双の弟である山吹錬武の血を引いているそうだ(どのような関係かは分からぬ)。
かつて武双が錬武を訪ねて砦を留守にしていた際に山吹の配下を一角衆に操られた事があったが、どうやらその時に武双は心太郎の誕生に立ち会ったらしい。
そして心太郎は3歳の時、武双の元に預けられたのだ。
錬武の血縁はたくさんいたが、これまでそのような事はなかった。
さやかは当初
『わざわざ父上に預けられるぐらいだから、よほどの潜在能力を持った子供なんだわ!』
と思っていた。
なので心太郎の教育係を任された時はわくわくしていたのだ。
一見どんくさい普通の子供だけど、何かのはずみに潜在能力を開花させるのよ!
そんな妄想にも囚われていた。
やはり潜在能力が目覚めるのは危機に陥った時だろうという事で、橋から川に突き落としてみたり、野生の猪をけしかけたりしてみた。
しかし心太郎は溺れて死にかけたり、吹っ飛ばされて死にかけたり、いつまでも覚醒する様子はない。
しばらく試してみてようやく、
『あぁ、この子は才能ないんだ』
と落胆したのだ。
さやかはくのいちとしては天才である。
兄・たけるの技を見よう見まねで学び、それを会得した才能はまさに非凡と言わざるを得ない。
そこにさやかの『指導者』としての欠点がある。
天才的な感覚で身に付けた技術ゆえ、言語化・体系化して他人に伝える事が出来ないのだ。
と言うよりも、技術を伝える為に『言語化』や『体系化』が必要という認識すらない。
つまりは『人を育てる能力』が欠けているのだ。
これは父・武双にとっても悩みの種であった。
さやかがいずれ山吹の頭領になるのならば育成能力は欠かせない。
そしてそれはさやか自身の心の鍛練にも繋がる問題である。
他人に何かを伝える為に必要な事はたった1つしかない。
それは、
『相手を自分に置き換える』
という事。
簡単に言えば
『相手の気持ちになって指導する』
という事になる。
言葉にすれば容易いが、実践はなかなか難しい。
人には自我がある。
自我が強ければ強いほど、自分を相手に投影してしまうのだ。
結果、自分の思想、思考を相手に押し付けてしまう。
『自分が伝える努力』を破棄して、相手に『理解する努力』を求めてしまうのだ。
今のさやかはまさにこの状態であった。
『相手の気持ちになる』というのは『敵の心を読む』為の第一歩である。
己に教えを請う弟子の心も読めぬ者に、敵対する相手の心理など読めようはずもない。
これが分からぬ内はさやかも、心太郎と同じ『三流』なのだ。
内面においていまだ未熟なさやかは、兄・たけるが自分を上手く導いてくれていた事に気付いていない。
たけるは、さやかが自主的に学び、自主的に成長出来るように『指導して』いた。
修行の際、さやかが興味を持ちそうな技を『さりげなく』見せる。
最初は真似しやすいように、分かり易く大きく動いて見せ、さやかが慣れるにつれて動きを小さくしていく。
さやかが戸惑っている時には『さりげなく』助け船をだす。
たけるは常に、『さやかに伝える事』を前提に修行していたのである。
そのやり方がうま過ぎたのかもしれぬ。
『伝える技術』を伝えぬままこの世を去った事はたけるの無念であったかもしれない。
とにかくさやかにとって心太郎は、出来の悪い弟子でしかなかったのだ。