2010-12-03(Fri)
乾いた風がミズチの屋敷を通り抜けた。
湿地を選んで築かれた荊木の砦にしては珍しい風である。
屋敷では、かがちとうかが母子水入らずの朝食の最中だ。
かがちは穏やかな顔をしている。
先日までの『頭領の妻』の顔ではない。
家庭的な幸せを味わっている『母親』の表情である。
かがちは箸を置くと、母の顔のままでつぶやいた。
『うか、そろそろ一角衆に対して動かなければいけないね』
『しかし母上、ここ数日、頭領の姿を見ておりませぬ。くちなわ殿の命なくして我らが動くわけには参りませんぞ』
『まったくあの子ったら…この大事な時期に何をしてるんだか…』
かがちはさして気にも止めていないようにつぶやく。
『くちなわ殿の住まい、もぬけの殻でござったが…夜具も床板も血糊がべったりと染み付いておりましたぞ。もしや…』
『あの子も荊木を束ねようかってほどの忍びだ。きっと心配には及ばないよ』
『しかし…』
『もしかすると、うか、おまえに頭領の座を譲るつもりかもしれないねぇ。だから姿をくらましたのかもしれないよ』
かがちの言葉はどこか芝居めいている。
『まさかそのような』
『いや、確かあの子は言ってたよ。荊木の跡を託すなら、ミズチ様の血筋が相応しい、とか何とかね』
素っ気なく言葉を紡ぐ。
しかしその言葉の余韻が消える前に野太い声が響いた。
『ほう、初耳でございますな』
これにはさすがのかがちも一瞬硬直した。
かがちとうかが同時に声の方に顔を向けると…
勢いよく戸が開いた。
『くちなわ…』
かがちが声を震わせる。
そこに立っていたのは、
数日前とは変わり果てたくちなわの姿であった。
痩せこけてくぼんだ頬、
落ち込んでぎょろりと見える眼、
無精髭、
口の周りには吐血の跡も生々しい。
顔色は青白く、
乱れた髪が風貌を更に悲愴なものにしていた。
『く、くちなわ、おまえ』
『どうしました母上、狐狸妖怪を見るような眼で』
穏やかに話しながらいつもの位置に―
かがちの隣りに腰をおろす。
顔色の悪いくちなわよりも、かがちの方が青ざめて見える。
くちなわはかがちの前の、空になった膳を見て
『私もいただきますかな』
と言うと屋敷の奥に声をかけた。
しばらくして一人前の膳がくちなわの前に運ばれてきた。
『あぁ、久しぶりの飯だ』
茶碗と箸を手に取る。
しかし口に入れる気配はない。
『恥ずかしながら、しばらく食あたりで苦しんでおりましてな。』
くちなわはにこやかにかがちを見た。
かがちは―
決して目を合わせようとしなかった。
2010-12-02(Thu)
荊木内部で、うかの支持は絶大であった。
忍びとしての腕も確かならば、人柄も負けじと優れていたのだ。
実力に裏付けられた信念とでも言おうか、
それでいて人当たりは穏やか。
下忍中忍が己の命運を預けるに足る男だったのだ。
中には
『うか様を頭領に』
と言い出す者さえ出てきていた。
なによりうかはミズチの実子なのである。
しかしうかは必ずくちなわを立てた。
荊木の頭領はくちなわ殿である、
皆それに従うべし、
己もくちなわ殿の配下の一人に過ぎない、と。
その分をわきまえた行動が更に支持を高めた。
そしてかがちは、
事あるごとに、頭領くちなわよりも息子うかを立てた。
かがちはとうとうくちなわを呼び、こう言った。
『くちなわ…ミズチ様の遺恨を晴らすのは、うかに任せちゃくれないかねぇ?
やっぱり親のかたきを討つのは実の子のさだめじゃないか』
『なれば私が荊木の頭領として、うか殿に討伐班を任せましょう』
『…なぁくちなわ、うかの下で荊木をまとめる為に力を貸してもらうわけにはいかないかい?』
『私は間もなく正式にミズチの名を襲名する事になります。
蛇組においてミズチの命は絶対でございましょう』
かがちは黙った。
『母上らしゅうない。
はっきり言えばよろしいのです。
実の子が戻ったならば、拾い子に頭領の座をくれてやる義理はないと』
くちなわはぷいと背を向けてかがちから離れた。
結局人は、例え忍びといえども情を捨てられぬのだ。
我が子が可愛いという事は、裏を返せば『余所の子など可愛くない』という事だろう。
情があるやらないのやら…
くちなわは感情というものが分からなくなる。
こんな不確かなものに人は振り回されてしまうのか。
愛を語る忍びは三流という一角衆の言葉もあながち間違いではないかもしれぬな…
あの男、うかは、おそらく一角衆の間者だ。
本物のうか殿はやはり幼少の頃、任務の中で命を落としたのだろう。
それを利用して…
いや、三十年も前の偶然をそこまで上手く活かせるものだろうか?
もしかすると、幼きうかを亡き者にしたのも一角衆かもしれん。
この日この時の為に…
奴らがそこまで荊木にこだわる理由は何か?
考えてみるが、分からぬものは分からぬ。
とにかく、あの偽者のうかに頭領の座を奪われぬようにせねばならぬ。
別に頭領の座が惜しいわけではない。
ただ、一角衆の思うままにさせるのが嫌なのだ。
母上が目を覚ましてくれると良いが…
はっきりとした対処が決まらぬまま数日過ぎたとある夜。
深夜に夜具の中で悶絶するくちなわの姿があった。
胸元をかきむしるように苦しみ、どす黒い血を吐いた。
途切れそうな意識の中で原因を探ってみるが―
かがちから差し入れられた食事―
それしか思い当たらなかった。
2010-12-02(Thu)
うかが任務に就いて十年近くが過ぎた。
その地での戦の兆しはほぼ消えていた。
しかし、うかとの連絡はとうに取れなくなっていた。
正体がばれて命を落としたのかもしれない。
ただ連絡出来ぬだけかもしれない。
どちらにしても忍びの宿命、ミズチとかがちも、あるがままに受け取るしかなかった。
ただ一つ残念なのは、かがちが子を産めぬ身体になってしまった事である。
精神的なものだったのか病によるものか、
気付いた時にはすでに遅く、荊木の医術でも手の打ちようがなかった。
それを知ったかがちは酷く気を落とした。
その時期に拾ったのがくちなわだったのである。
かがちはくちなわを、亡きうかの代わりに我が子として育てたのだった。
しかし、
その息子が、うかが帰ってきた。
三十数年ぶりに。
よく見れば幼子の頃の面影が残っているようにも思える。
かがちは…
取り囲む忍び達を押し退けて、息子にすがりついて泣いた。
息子も、すでに小さくなった母をひしと抱き締めた。
とりあえず湯を浴び、身なりを整えたうかは、父ミズチが亡くなった経緯を聞いた。
『一角衆…噂には聞いておりましたが、まさか父上をそのような…』
うかは力強く立ち上がる。
『討たねばなりますまい、一角衆を!頭領の弔いをいたしましょうぞ!』
死んだはずの息子から溢れる活力に、かがちは胸が踊った。
『うか、さっそく仇討ちの準備をなさい。おまえが指揮を取るのです』
その言葉に、隣りにいたくちなわがぎょっとした顔をした。
うかはそれに冷静に目をやり、低い声で言った。
『なりませぬぞ母上』
『なに?』
『先代亡き後、我が荊木の頭領はくちなわ殿でござろう。
数十年留守ののち、ふらりと出戻った私の出る幕はないはず。
この状況に混乱なさるは当然とは言え、そこを見誤っては組織が成り立ちませぬぞ!』
その剣幕に、あのかがちがたじろいだ。
うかは表情を柔らかくし、くちなわに相対して、頭を下げた。
『今のはかがち様のほんのはずみ、気を悪くされたら申し訳ない』
『い、いや、何という事はござらん…』
くちなわは動揺を引きずったまま、もごもごと答えるのがやっとだった。
つい先日、みずちより頭領の座を任せるとの命を受けたのは自分ではなかったか、
それを聞き、かがちも満足気にうなずいていたというに、
我が子が帰ればやはり心が揺らぐのか…
くちなわは落胆しながら改めてうかに目をやった。
窓より差し込んだ西日が一瞬何かに反射した。
それは、うかの傍らに置かれた忍び刀の鍔を照らした光だったようだ。
金細工の残像がくちなわの網膜に焼き付く。
見慣れぬ紋様だ。
荊木の紋ではない。
しかし、どこかで見た覚えがあった。
あの紋様…
くちなわはハッとした。
かすみが使っていた小刀にもあの紋が刻まれていなかったか。
一角衆の間者であったあの女と同じ紋章を身に着ける男。
この者は、もしや…?
くちなわがうかの顔を見た。
うかもくちなわの顔をじっと見ていた。
そして、意味深げににやりと笑った。
2010-12-01(Wed)
荊木の砦に撒かれた毒は、すでに十数人の命を奪っていた。
しかし解毒薬の完成と共に事態は沈静に向かった。
それを見届けて、ミズチは息を引き取った。
荊木の未来をくちなわに託して。
実力から考えて、くちなわがミズチの後継となる事に異論を挟む者はいなかった。
これを機に荊木流は新しい一歩を踏み出すはずだった。
あんな事がなければ。
ミズチが亡くなった二日後、ふらりと荊木の砦を訪れた男がいた。
くちなわよりもやや年上だろうか。
身なりは決してきれいではないが、眼は活きている。
鍛えられた身体を見ても、忍びである事は間違いなかった。
くちなわをはじめ、荊木の忍びが不審な男を取り囲む。
男は敵意を露わにする事もせず、何を問われても答えず、ミズチの屋敷に近付く。
力ずくで食い止めようにも全ての技が通用しなかった。
放たれた手裏剣やくないは、まるで時間が逆流したかのように、投げ手の元へ跳ね返された。
刀を抜いてかかる下忍は男に触れる事すら出来ない。
くちなわが刀を抜いた。
この男、かなりの手練れだ。
刺し違える覚悟で臨まねば止められぬ…
下段に構えたくちなわがじりりと動いた時、屋敷の中からかがちが姿を現した。
男の視線が初めて動いた。
かがちを捉えたその目を見開き、くちびるを震わせて、
ようやく声を発した。
『…母上』
その瞬間から荊木は揺れた。
この一言が荊木流崩壊の引き金だったのだ。
かつて、ミズチとかがちには一人息子がいた。
名を『うか』といった。
二人の才能を受け継ぎ、幼い頃から神童の誉れ高かったうかはわずか四才にして初めての任務を与えられた。
それは遠方のとある藩の偵察であった。
そこでは戦の火種がちらちらと見え隠れしており、もしそれが現実になれば、近隣の国々が巻き込まれるは必定だと思われた。
それを影で仕組んでいるのが謎の忍び集団だと噂されていたのだ。
わずか四才のうかは、牛組の忍び数人とその地へ向かった。
見知らぬ土地を偵察する場合、少なくとも数年から十数年は時間をかけなければならない。
余所者が情報を探れば怪しまれる。
年月をかけ、その土地の人間になりきって初めて偵察が始まるのだ。
牛組は長期偵察の専門職だ。
戦闘能力は低いが、様々な土地で人々に溶け込む術を持っている。
子連れならば忍びと疑われる可能性は低い。
だがこの時、牛組にはちょうど幼子がいなかった。
そこで神童、うかを連れていく事になったのだ。
2010-12-01(Wed)
『まさかおぬしの口からそのような…今の俺に同情しての言葉ではないのか』
たけるは困ったように微笑む。
『私のような若輩が言うのもなんですが、くちなわ殿はもっと自分に自信を持っていい』
『なに?』
『先ほどあなたは、私に才能があると言って下さった。
しかし私には生まれ持った才などありません。
私が何かしら才能を持っているとしたら、それはただ1つ、あきらめずに修練に打ち込むという才です。
そして、』
たけるは言葉を区切り、真っ直ぐな瞳でくちなわを見た。
『それはくちなわ殿、あなたを見て学んだ事なのですよ』
くちなわは気圧された。
『私はあなたほど真摯に修行に打ち込んでいる忍びを他に知らない。
忍びとはかくあるべし、それを教えてくれたのはくちなわ殿です』
意外な、あまりにも意外な答えだった。
『…ふん、おぬしには蔑まれていると思っておったが』
たけるはふっと笑った。
『あなたの何を蔑めばいいんです』
『忍びのくせに感情も殺せぬ』
『そんなのは私も同じですよ』
『そうなのか?』
『えぇ。かしらにいつも叱られます。でも私は…
これを言えば山吹に、いえ、十二組に逆らう事になるかもしれませんが…
感情を殺してしまう事が必ずしも正しいとは思えないのです』
『ほう…』
『忍びの世界も日々変わっております。
先々代の頃はもっと血なまぐさかったようですが、今ではこうして流派を越えた穏やかな交流がある。
このまま時が流れれば、兵器としての忍びは必要とされなくなるかもしれない』
たけるがいつになく真剣な顔をした。
『忍びが兵器でなくなったその時、感情のない者に何が出来ましょうや』
くちなわは驚愕した。
自分はそのような先まで見通した事はない。
『偉そうな事言ってスミマセン。今の話、みんなには内緒にしといて下さいね!
それじゃこれにて』
いつもの人懐っこい笑顔に戻ってたけるが背を向けた。
くちなわは思わずたけるを呼び止める。
『たける!』
立ち止まって振り返る。
『はい?』
『一角衆いわく、愛だの恋だの語る忍びは三流だそうだ。そう言われて、おぬしなら何とする?』
たけるはためらいもせずに答える。
『こっちも言ってやりますよ』
『なんと?』
『へぇ?愛も恋も知らない者は山吹では忍び扱いされませんけどねぇ、って』
そう言って笑った。
いい笑顔だ。
『それでは、御免』
言葉が終わる瞬間、たけるの姿は消えていた。
くちなわは、しばし時が流れた後、
ひさかたぶりに微笑んだ。